2022年8月8日月曜日

宇宙は意識の世界


 宇宙は意識の世界

宇宙は高バイブレーションの世界。見えない世界。
宇宙は1つなる高バイブレーションの世界と現象界の低バイブレーションの世界が同居している。波動の世界である。現象界、見える世界でもエネルギーが高ければ小さくなって行く。細かくなると食べ物でも美味しく感じる。美味しく感じるのはエネルギーが高いということである。
エネルギーは気であり、人間も気の高い人を気高い人と呼ぶ。宇宙は気の世界、意識の世界。想念の世界。すべて見えない世界のことである。
現象界は見えない気の世界が、現象として現れている世界。見えないものが波動を下げることで見える世界を現わしている世界。見えないものも見えるものも1つの生命体である。
形は宇宙には実在しない。1つなる見えない生命体。陰陽の法則、愛の法則が実在しているだけである。神とは法則のことである。神様がいる訳ではない。法則が神である。ピラミットバランスである。
人間は実在しない。実在しているとすれば宇宙は成り立たない。無限生命体ではなくなる。見えるものはすべて神の化身であり八百万の神である。人類はこの仮相の見える世界に自縛してしまっている。消え行く世界から離れ、1人、1人がが本来の自分に戻って行く。見える世界は幻影であり、この世界から離脱して行かなければならない。肉体と思っているものは霊体であり、エーテル体である。
人間は物質ではない。霊体である。宇宙は霊体である。すべては霊体である。1つなる霊意識の世界、見えない世界、陰陽の法則の世界。




2022年8月7日日曜日

蜂蜜に対して「人の持ち物を取るな」と何ぜ言うのか?


 蜂蜜に対して「人の持ち物を取るな」と何ぜ言うのか?

宇宙は1つなる生命体である。無限生命体である。
全ては1つなるものがあるだけである。自分がいるだけである。宇宙即我の境地である。すべては1つである。すべては自分である。すべては自分が判断を出している。
人の持ち物を取るなという意味は1つなる生命の中で取り合いをするなということである。
全ては1つなのである。分離感をもってはいけない。ということを云われている。
全てが我で有れば自分を出して行くしかない。宇宙即我を表現して行く。すべてを持っている我であり、外からエネルギーを取ることはしなくて良い。人間一人、一人がエネルギーの放射体であるということである。人間にはものを生み出す力が備わっている。それに気づかないだけである。



2022年8月6日土曜日

死は嬉しいもの、悲しいもの


 死は嬉しいもの、悲しいもの

宇宙は1つなる永遠なる生命体であり、宇宙には死は存在しない。無限生命の中に有限なるものは存在しない。昆虫達は青虫から死んでさなぎになり、蝶に生まれ変わる、人間も固体から空に離脱して行く。肉体の死は脱皮なのである。これは喜ばしいことなのか?悲しいことなのか?死を認めるとまた人間に生まれてくる。脱皮できるまで。自然界の昆虫たちは脱皮して成長をさせている。
人間だけが肉体芋虫にしがみつき、死を恐れ、生きている。昆虫たちは死を恐れて生命保険には入っていない。無限の中に有限なる死は存在しない。見えるものは現象であり、実際にはないものである。何故、人間と言う人形(ひとがた)が現象化してるのかというと宇宙の生命エネルギーを放射させる為に波動の高い万物の霊長と云われる人間の媒体を使っているに過ぎない。宇宙には姿、形は存在しないのである。あるのは空なる生命体が実在しているだけである。人間を動かしているのは目に見えないものが肉体を動かしている。
見えないもの「意識、空気、想念、大気、息、心、」色々な呼び方はあるがすべて1つなる生命のことである。見える現象をあると思う心が死というものを作っているだけである。
宇宙には死は存在しない。









2022年8月5日金曜日

争いは何ぜ起きてしまうのか?


 争いは何ぜ起きてしまうのか?

宇宙は無限生命体であり、1つの中には争いは生じない。宇宙は見えるもの、見えないものはすべて1つなる生命の現われであるが見えるものを現象とは気づかずにあると信じる心が分離感を生み、消え行く世界の中で自己保存が働き、争いを起こしてしまう。
宇宙は無限大の見えないエネルギーと質料であることを知ることで空よりエネルギーを調達できることがわかれば有限なるものの中から敢えて取ることはなくなる。完全なる宇宙生命の中で外部からエネルギーを入れることは必要ない。人間という仮相を使って地上界に生命エネルギーを放射させる為に人間と言う媒体があるのである。永遠なる生命体の中ですでに安泰であるのにあえて有限な生老病死の四苦の世界の中で生きることはない。
見えるものをあると信じる心が争いの元を作っていいる。このことを人類は理解していない。


2022年8月4日木曜日

不老不死


 不老不死

肥田先生の著書に書かれている秦の始皇帝の話。
秦の始皇帝は自分の中に不老不死の仙薬があることに気づかなかった。とハッキリ断言している。
何故、そのように言い切ることができるのか?
宇宙は1つなる生命体で永遠なる生命体であることを理解されていたからである。宇宙は無限生命であり、人間は永遠なる生命体の現象であることを知っていたということになる。それが強圧微動術、天真療法の骨子にもなっている。
宇宙は完全バランスの中性の生命体であり、陰陽の生命バランスの生命体である。
宇宙倫理の書も原点は1つである。この宇宙には1つなる生命体があるのみで人間は存在しないことを知っておられた。常に肥田先生は無私、無我でおられる。この世を「塵の世」と云われている。人間を離脱されていたのだと思う。肥田先生のことを波動の低い人間が詮索することはできない。次元の低い人間が理解できない世界に肥田先生は居られる。肥田先生の逸話に中に「的に当てると100発100中であり、当ててから投げるから当たるのだ」と云われても一般の人には理解はできない。宇宙は永遠なる無限生命体であり、人間1人、1人はこの無限生命の中に存在していることは確かなことである。生命は1つであり、肥田先生の生命も我々の生命も同じ生命である。誰もが宇宙の永遠なる生命の中に生まれ、生かされている。故に人間には死は存在しない。形を見るから死と思ってしまうが、死と思ってしまうと自縛ですが、昆虫のように脱皮して行くのであって仮の宿から本宿に戻る途中なのである。青虫がさなぎになり蝶になって行くように人間も人間芋虫から解脱して行くのである。死は次へのステップなのである。
故に不老不死なのである。見える世界は実在しない仮相界であり、この世を生きようとすると生老病死の四苦に悩まされ、低波動の人間から抜け出せなくなる。「汝に見るもの受け継がん」また気づくまで人間をさせられる。




2022年8月3日水曜日

中心の鉄扉(2)


 中心の鉄扉

中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは
     米を抱いて餓死するが如し
肥田先生のこの言葉は非常に重い言葉である。人間に生まれているものの中にどれだけ中心の鉄扉を開いているものがいるのだろうか?
中心力とは宇宙力であり、宇宙と1体になっている人間である。自分を持っていない人である。
自分を持っている人間は自我であり、宇宙全体が本来の自分であり、姿、形を自分と思っている人間は「米を抱いて餓死するが如し」である。人間という姿、形に囚われてしまうと自縛してしまう。肉体を自分だと思ってしまうとキリストが云われるように肉に生きるは死である。肉に死ぬものはまた肉に生まれると。肉体鍛錬の為に肥田式を学ぶものは死であるということになる。中心力が我であることを理解し、本当の我は肉体でなく、中心生命が我であることを理解して行くことを意味している。見える肉体波動は低バイブレーションであり、高バイブレーションになると形を持たない。肉体は実在してはいない。1つなる宇宙生命体の1つの細胞体が人間という小我の化身であり、化身の中に本来の我が宿っている。宇宙生命の法則、愛の法則に基づいて生かされている存在であり、全体で1つであり、個々のものは存在していない。1つなるものの中に2つはない。無限生命の中に有限なる生命は存在しない。
人間は人間もいて、宇宙もあると思っている。中心の鉄扉とは我は人間ではなく、1つなる宇宙生命であることを理解する。肥田先生が「天寵無限」という言葉も宇宙と1つになって使えるという意味である。人間がいて宇宙力は絶対に使うことはできないのである。
中心力は誰にでも備わっており、誰もが1つなる中心生命から生まれている。この中心力を使い、人間の低波動を高め、肉体を離脱させて行くことを中心の鉄扉に隠されているものである。


2022年8月1日月曜日

中心力は宇宙生命力


 中心力は宇宙生命力

肥田式は中心力活性法であるが、肉体は宇宙の生命体の現象であり、肉体を幾ら鍛えても現象を鍛ええることになる。肉体は中心力によって造られている。中心力は目に見えない。肉体を通して使う。何かの媒体がなければ中心力を現わすことはできない。故に心身強健術なのである。肉体と心を1体として使うことで中心力が肉体を通して現れてくる。中心力は肉体の強化のために使うのではない。肥田先生は中心力を使うことで地球の波動を上げているはずである。これが第3次世界大戦を防ぐ方法だからである。
中心力は宇宙力であり、現象の消え行く人間は使うことはできない。自分を無くし、無我の状態になって初めて使うことができる、人間は現象であることを理解できなければ使うことができない。大悟徹底されたということは悟空であり、肉体離脱をされているということである。
中心力を使うことは、見える世界から見えない生命の世界にもどる為の足掛かりである。
現象界の人間を生きることではない。宇宙は1つなる生命体であり、1つの中で争いは必要はない。強くなろうとすることは現象を生きようとするものである。肥田先生が云われているように「この世で強い人間は地位も名誉もお金も命もいらない」人間である。人間を捨てたものが一番強い。無我であると。