中心の鉄扉
「中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは
米を抱いて餓死するが如し」
肥田先生のこの言葉は非常に重い言葉である。人間に生まれているものの中にどれだけ中心の鉄扉を開いているものがいるのだろうか?
中心力とは宇宙力であり、宇宙と1体になっている人間である。自分を持っていない人である。
自分を持っている人間は自我であり、宇宙全体が本来の自分であり、姿、形を自分と思っている人間は「米を抱いて餓死するが如し」である。人間という姿、形に囚われてしまうと自縛してしまう。肉体を自分だと思ってしまうとキリストが云われるように肉に生きるは死である。肉に死ぬものはまた肉に生まれると。肉体鍛錬の為に肥田式を学ぶものは死であるということになる。中心力が我であることを理解し、本当の我は肉体でなく、中心生命が我であることを理解して行くことを意味している。見える肉体波動は低バイブレーションであり、高バイブレーションになると形を持たない。肉体は実在してはいない。1つなる宇宙生命体の1つの細胞体が人間という小我の化身であり、化身の中に本来の我が宿っている。宇宙生命の法則、愛の法則に基づいて生かされている存在であり、全体で1つであり、個々のものは存在していない。1つなるものの中に2つはない。無限生命の中に有限なる生命は存在しない。
人間は人間もいて、宇宙もあると思っている。中心の鉄扉とは我は人間ではなく、1つなる宇宙生命であることを理解する。肥田先生が「天寵無限」という言葉も宇宙と1つになって使えるという意味である。人間がいて宇宙力は絶対に使うことはできないのである。
中心力は誰にでも備わっており、誰もが1つなる中心生命から生まれている。この中心力を使い、人間の低波動を高め、肉体を離脱させて行くことを中心の鉄扉に隠されているものである。