2022年8月29日月曜日

固定観念とは


 固定観念とは

何ぜ固定観念という言葉があるのだろうか?
固定観念を持ってはいけないと誰もが云う。物事を固定して見てはいけないということである。物事は常に変化してしまうものである。見えるものは変化して止まないものであるということである。結果である。見えるものは見えないものによって現わされている。見えるものと見えないものは1つであり、2つで1つである。見えるものだけを見てあると思う心が固定観念であり、分離感である。見えるものは実在しないのである。形であり、形には何の力もない。偶像である。これをあると思う心が固定観念という分離感を持ち、知識で自分は分かったつもりになってしまう。答えを外に求める生き方になってしまう。青い鳥を外に求めるようになってしまう。
固定観念という自我は取れそうで取れない。真剣に自分に向き合わなければ取れない。
全ての答えは自分の裡のあるのであって外にはないのである。
自分の目的意識をはっきり持ち、事に当たることで徐々に固定観念は取れてくる。
思い込みで、やっているつもりで、実際は安易に勝手に形だけをなぞっている。聞く耳を持たない。幾ら言っても自分は正しいと思い込み、つもりで行っている。それに気づかない。本人は自分ではやっていると思っているからそれ以上は言えない。気づくまで待つしかないのである。その内に本質から離れてしまう。
固定観念、思い込み、先入観、この五感の自我から抜け出すには真剣に素直な心で自分と向き合わなければならない。最大の敵はこの固定観念である。すべては1つの法則によって動かされている。固定観念は自我である。本来は自我はなく、無我である。人間は形に人間と云う名前を付けているだけで後付けの名前であって人間という初めから生き物は存在していない。形の名前である。「人間は宇宙の塵にて人間と云う形を造り、息を吹き込まれた」と聖書の書かれている。
宇宙は1つなる無限生命体であり、人間は宇宙細胞体の細胞の一部である。人間が居ると思う心が自縛し、迷いを持ってしまう。無限なる中に有限なる自我は存在しない。万象万物はすべて1つなる生命の結果の現象である。自分は存在しないのだから悩むことも不安もないのである。不安がある人は自我である。生かされていることに気づかず、自分で生きていると思っているものは宇宙生命体のがん細胞である。固定観念は実在しない見えるものをあると思う心が自分を縛ってしまう。