人間は自分を持つと能力が出ない何ぜ?
一心不乱、一所懸命、必死の覚悟、背水の陣、すべて自分を捨てて無我の状態になる時、裡から力が湧き上がってくる。
宇宙は1つな生命体である。全体で1つである。全体の中の1つの細胞が全体と分離して自分は自分で動く時、全体の力が使えない。自分には知恵も力もない。全体の中で生かされている存在である。1つになるということは全てが1つになるということである。
会社でも社会全体の1部であると1つの会社が意識するとお客と作り手が1つになれる。邪な考え方で会社が1つになっても全体が1つにならなければ、会社は社会の波に持て遊ばれてしまう。
この世は1つなる生命の現象界、仮の宿である。現象は存在しない。存在しない中で生きようとする為、分離感を引き起こす。其処に争いが生じる。現象は仮相であり力はない。本来は何も学ばなくても良いのである。すべて完全なる中にいるのである。宇宙は1つなる完全なる無限生命体、完全なる生命エネルギーを放射させる為に人間と云う現象の器が現れている。
この神の道具を自分と勘違いをするためにこの現象界から抜け出すことができない。
キリストが云われる「現象、肉に生きるは死」であると云われている。
ないものをあると思う自我の心が自分を小さな消え行くものの中に縛ってしまっている。
宇宙の1つなる生命を小さな有限なる中に自ら閉じ込めてしまっている。1つなる宇宙生命を神、仏陀、天照大神と名付けている。1つしかないのに色々な神がいる訳はない。
色々な呼び方があるのである。部分的な見方しかできない為、そこに自分が一番正しいと争いを起こしている。宇宙は1つなる生命体であることが理解できれば仮相の中で争いはしなくても良い。仮相を自分と思ってしまうと解脱、昇天は波動が低い為、できなくなる。
現象界の低い波動から肉体の裡に宿る高波動に上げて行く。これが現象界での成すべきことである。肥田先生も「中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは 米を抱いて餓死するが如し」と云われている。生きていても意味がないということを云われている。自分は存在しない。中心、中なる心が我である。これに気づく鍛錬、自我を取る鍛錬が肥田式であると思っている。
肉体鍛錬がいけないと云っているのではない。中心力が身に付けば自ずと健康にはなる。それぞれの考え方で行なえば良いと思う。肥田式が万芸の泉と云われるのはこの中心力にある。