2023年10月18日水曜日

生命は完全バランス


 生命は完全バランス

バランスとは2つのものが1つになっているということです。質料とエネルギーの完全バランスである。この完全バランスが中性なる生命である。
宇宙はこ゚の完全バランス、中性なる生命体である。
この生命体は創造の原理でもある。宇宙はこ゚の原理により万象万物を創造し、生命活動をしている。

この完全バランスがあるが故、現象を顕すことができる。この完全なる生命体の中に現象化している。すべて完全なのです。

人間も完全なる生命の現象であるが、人間は自由意志がある為に、この自由意志を現象を見て自分を持ってしまった。実在しない自我を。
現象は常に変化して止まない無常の世界であり、この現象に意識を置いてしまった。
完全とは見えない高バイブレーションであり、現象界は見える低バイブレーションの世界である。高バイブレーションなる我を低バイブレーションに下げてしまったのは自分自身であり、自分で波動を上げて行かなければならない。現象界で成すべきことはお金儲けではなく、波動を上げることである。自分は蓮の華であり、その種は自分の中に蒔かれている。現象界でこの種を開花させて行く。現象界は種の大切な肥料である。

2023年10月17日火曜日

人間は自分で生きようとするから間違いを起こす


人間は自分で生きようとするから間違いを起こす 

宇宙は完全なる1つなる生命体である、完全なる生命体である。この完全ということが前提である。
完全ということはすべて行うものが完全であるということである。
万象万物はこの完全なる中に生命活動がなされている。人間も宇宙の完全なる中で生命が活動をしている。完全と云うのは生命が完全なのであり、現象は媒体なので、完全ではない。外部の影響に影響されてしまう。
人間には自由意志が与えられており、完全にも不完全にもすることができる。
完全なる生き方をするために自由意志が与えられているが、自分が生きようとして不完全を招いてしまった。肉体は自分のものではなく、神が地上界に生命エネルギーを顕現する為に造られた神の宮を自分のものと勘違いをして神のものを勝手に使っている。盗人である。
故に不完全になってしまっている。現象を見るから自分のものと思ってしまうので、現象は生命が現象を顕していることに気づけば肉体は不完全になることはない。
神として生きれば何の問題はない。人間と思っている自分は神の器なのである。
故に間違いを起こしてしまうのである。
宗教家はこの盗人の悩み相談をして生きている。

人間は神の顕現道具を自分と勘違いをしているだけなのである。自分は姿、形ではなく神そのものが我であるということである。


生命が肉体を通して生きている


 生命が肉体を通して生きている

人間は姿、形が自分だと思っているが、人間は見えない生命の化身なのである。
生命がなければ肉体を動かすことはできない。
生命は高バイブレーションのため見えない為に生命を感じ取ることができないのである。
人間という姿、形を動かしているのは意識である。この高場バイブレーションの見えない意識が肉体を操っている。1人、1人が想念意識を理解し、バイブレーションを上げて行くことで肉体意識から離脱して行く。意識の切り替えをして行く。
キリストが云われているように、肉に生きるは死であると。永遠なる生命の中にいるのだから有限の死に生きてはならないと。



正しい法則に戻す


 正しい法則に戻す

宇宙は1つなる完全法則である。万象万物はこの完全法則に基づいて現象化している。完全の中に居て不完全ということはない。不完全にしているのは人間だけである。人間には自由意志が与えられている。この自由意志を正しく使わない為に不完全を生み出している。宇宙の法則に沿って使えば問題なく、永遠なる生命体で生きることができるものを敢えて法則違反で使っている。その為に自分で自分の首を絞めている。

現象と顕している生命を分離することで不調和を起こす原因になる。この分離感が地上界を修羅場にし、1つなる生命体の人間同士が醜い争いをしている。これは宇宙の法則違反である。
この不完全なる生き方が、この地獄界から抜け出せない原因である。これらの不調和はすべて自分が創り出している。この事に気づけば生老病死の世界、自我の世界から解放される。


本来の我とは



 本来の我とは

宇宙は無我の境地とも云われているのは宇宙は形を持たない無形無双であるということである。
これが全知全能の生命体である。
現象界で、人間が力を出す時、どのようにするのかというと、自分を捨てた時に力が出る。
お金も、地位も名誉もいらない。自分の命もいらない人間は現象の安全弁が外れる為に力がでる。これが無我ということである。
宇宙はこの無我の状態。現象には心を止めない状態。現象の思考を停止させて行く。
現象界から離脱するために意識の切り替えを行い、生命エネルギーと一体になり、エネルギーを放射させ、本来の我に戻って行く、現象界は本宿に戻るための学びの場所である。
特別な難行苦行は必要ない。日常の中で行う。この世を楽しく生きる場所ではないのである。



分離感が人間を現象から抜けさせなくしている


分離感が人間を現象から抜け出せなくしている

天地一体。表裏一体、すべては1つである。
宇宙は1つなる細胞体であり、細胞が分裂し、集合化し、見える現象を顕している。
この見えるものだけをあると思ってしまうことが 分離感になってしまう。
見えるものは現象なので常に変化して止まない世界である。見えないものは実在で永遠なのであるが、見えるものには寿命がある。
人間は生まれることを誕生と云い、お祝いをする。誕生ということは不完全であるため、地上界にまた戻されたのであり、本当は不幸なのである。
死ぬ時も悲しむが、昇天するのだから喜ばしいのであるが。
考え方が真逆なのである。
この真逆な生き方を変えない限り、昇天することはできない。
結果から原因を求めることはできない、

今の宗教を見ていると今の現象の困りごと相談所になっている、キリスト、仏陀は困りごとを解決する為に現れたのですかね。
モーゼの十戒ではないが、現象利益を優先する偶像崇拝するものと神の生き方をするものに分かれる時期に来ていますね。



2023年10月16日月曜日

姿、形の背後にあるもの


 姿、形の背後にあるもの

姿、形は現象であり結果現象である。現象を顕しているものがある。見えるものは必ず顕しているものがある。宇宙は1つなる無限生命体である。これ以外何もない。生命は見えない。法則である。
この法則が万象万物を顕している。顕しているものと顕れているものは同じものである。色心不二である。
原因、結果である。この2つで1つであることを忘れ、見えるものだけをあると思う心が分離感を生み出してしまう、分離感は完全なるものを不完全にしてしまう。意識の問題である。
不完全にしてしまうとそれを完全にしようと外部からエネルギーを得ようとする。
其処に争いが起きる。善悪の木の実と云うのは分離感である。
人類はこの分離感に気づくまで、修行をさせられる。
姿、形は外なるもの、外なるものは内なるものが顕している。見えるものの背後にあるものが実在しているものである。背後にある原因が我であり、現象の結果の我は仮相である。
仮相は内なる生命の操り人形であり、何の力も持ち合わせていない。生命の現わす媒体としての器である。