卵は食べる為に存在しているのか?それともひな鳥の生命なのか?
人間も外の形が自分なのか?内なる生命が自分なのか? なのである。
キリストは云われるように肉に生きるは死ということはひな鳥にならず、卵のままで孵化しない状態でいたいのか? 卵の殻を自ら破り、ひな鳥になって行くのか?
これは自由意志である。卵の状態ではまた再生されてくる。ひな鳥になるまで。
人間はひな鳥にならず、殆どのものが、卵を選び、現象界で豊かな生き方を追い求める。
仏陀が云われるように、肉体は生命の乗り船であると云われている。乗り船に生きてはならないのである。乗り捨てるものである。
肥田式強健術・聖中心道の鍛錬記ブログです。肥田先生は第二次世界大戦後、第三次世界大戦に向けて宇宙倫理の書を書かれている。何故書かれたのか。その意味は?宇宙は1つなる生命体である。1つの生命体の中に争いをは存在はしないことを云われたのだろうか?焼失してなくなりましたが。それを紐解いて行くブログです。
2023年11月1日水曜日
卵が我なのか?ひな鳥が我なのか?
宗教とは何か?
人類は世界中で宗教戦争を巻き起こしている。
人類に取って宗教は必要なのだろうか?
宗教とは何か?
争いをさせる為のものなのか?宗教という字は宇宙を示すと書く。宗教は宇宙の法則のことを知る。この法則によってすべての現象が現れている。
宇宙は1つなる生命体である。永遠なる生命体である。この生命が現象化しているだけである。キリスト、仏陀は宇宙の法則を示されたが、これを引き継ぐものが、出てこなかった。
現象の奥にある法則を理解できなかった。見えるものだけを扱う思想家になってしまった。
宇宙の法則はキリストの愛の法則、ブッタの慈悲の法則、中性の法則が生命であり、こ゚の生命が宇宙の本源本質であり、創造の原理、全知全能の力、知恵であることを理解することで、無限大の世界の中で生きる、現象界はその事に気づく為の仮相界である。
原因、結果の法則であり、見えるものには必ずそれを顕しているものがあることに気づくことで、永遠なる生命が我であることに気づく。神とは1つなる法則、この法則が人類を造っている。人間は現象であることに気づけば争いは起きない。善のみの世界を現象をあると信じるこころが善悪の心を自ら造り上げてしまった。
人類はもう一度宗教を再度見つめ直す時期に来たようである。
見えるものに囚われるとバランスを失う
宇宙は1つなる生命体。こ゚の生命体がすべての現象を顕している。原因結果の法則である。
現象から詮索しても原因は理解できない。
原点から物事を見つめる。これが正しい見方なのである。
見えるものから原点を見ようとする為に理解できない、ずべて原因から見ることで、問題は解決できる。完全なるものを不完全にしているのは自分自身なのだから。自分がやっていると思うから迷い道に入ってしまう。
自分では何もしていない。私という媒体を使って御業を成しているのは生命なのです。生命は神であり、仏である。肉体は生きていない。生命の操り人形なのです。自分と思って居るものも実際には自分ではないのである。勝手に自分と勘違いをしているだけである。
完全なるものを不完全にして自分を縛っているのは自分自身である。
現象から入る今の仏教は釈迦が云われている意味は理解できない。
21世紀はまがい物は消えて行く運命にあると感じます。
2023年10月29日日曜日
人間は現象に囚われず生きなさいと云うが本当なの?
宇宙は1つなる無限生命であり、生命が姿、形を顕している。現象は変化して止まない諸行無常の世界である。ブッダは諸行無常の世界を生きよとは云っていない。たとえ話の裏のある本質のことを云っているのである。現象から見るとブッタは慈悲の心で他人に接しなないという言葉もその裏にあるを云おうとしているのです。
見えない生命、法則のことを仏陀は慈悲という言葉に置き換えているだけなのです。
1つなる宇宙の法則、永遠なる我が本当の自分なのである我。それは中性であり、この現象界はこれを理解し、本当の我に戻る為の仮相界なのである。仮の宿、俗世、浮世なのである。
現象から脱皮する場所なのである。
素直に考えて、決められた時間の中で、人間に生まれ、現象の諸行無常の世界に囚われて生きる為に生まれてきたのですか?諸行無常の世界の中で何を学ぼうとしておりますか?それともお金も儲けですか?
2023年10月28日土曜日
空は法則なり
顕われているものは変化して止まないがそれを顕している生命は完全なのである。
現われているものだけを見てしまうと変化して止まないものをあると思う心が現象、生老病死の四苦に囚われてしまう。宇宙は完全なる永遠なる生命体であり、この完全体の中に不完全は存在しないのである。宇宙で生きているのは生命であり、現象は生きてはいないのである。人間は現象であり、存在していないことを認めないで、現象に囚われないで生きなさいとと仏陀が云っていると思っているが、現象に囚われないで生きよということを云わないで存在しないものに囚われずに生きよと言った方が現象に悩まずに済むではないか?
これが仏教が迷妄から抜け出ない大きなネックである。
仏陀の例え話は宇宙は中性であることを云っているのであって人間を生きよと云っていない。
宇宙即我とも云っていますね。
宇宙は無限生命であり、人間は生命の放射媒体に過ぎないのである。
人間が生きているのではなく、生命が生きる住処が人間の形をした仏の宮なのである。
生命は法則であり、見えない空である。