2023年11月24日金曜日

生命が我であり、肉体は我が宿る器である


生命が我であり、肉体は我が宿る器である

宇宙は中性なる1つなる生命体である。
この生命体は見えない生命体であり、永遠なる微生物である。これが宇宙の本源本質であり。宇宙そのものである。無限生命、普遍生命であり、宇宙に遍満している生命体があるだけである。
生命体は目には見えない。でも実在する。
何故、見えるものには必ず顕すものがある。見えるものだけが存在することはない。
あるということは永遠にあるということである。消えて行くものは現象であり、必ず顕すものが存在する。宇宙は1つなる生命体であるため、1つの中に様々な見えるものが実在することはない。見えるものはそれを顕すものがあるということである。宇宙には1つなる生命が実在する。こ゚の生命が原因なき、原因、宇宙生命、中性なる永遠なる生命体である。
肉体は現象であり、現象を顕す生命が顕している。現象の肉体の中に宿っている我がいるのである。見えない現象に宿っているのが我である。現象を造り、維持しているのが我である。
これを生命、神と呼ぶ。我は神の子であり、肉体は神の器である。
 

2023年11月23日木曜日

人間には自由意志が与えらている


人間には自由意志が与えらている

宇宙には1つなる無形無双の生命のみが実在している。他に実在しているものはない、
この無形無双の生命を神、仏と呼んでいる。
宇宙には生命エネルギー、中性エネルギーのみが実在している。全知全能のエネルギー、知恵が実在している。この無形無双の中性エネルギーが様々な形態を造り、その中で働いている。
見えるものの中には必ず見えない生命を宿している。こ゚の生命が万象万物に宿り、生命活動をしている。
この内なる生命が宿る人間の形態には自由意志が与えられている。人間に生きる自由意志、神に生きる自由意志。その選択権が与えられている。あなたはどちらを選択しますか?
 

宇宙全体が1つの生命体


宇宙全体が1つの生命体

宇宙全体が1つの生命体、中性なる生命体。
我が内なる生命も宇宙の生命体である小宇宙である。大宇宙の中に様々な小宇宙が存在する。
我も太陽系の地球という中に存在する人間という小宇宙である。
すべてに生命が宿り、万象万物を顕している。
人間は神に似せて造られたと云われ、神と一体になることで神の我を顕現する。この自由意志が与えられている。人間は現象に生きることではなく、生命に生きる選択権を与えられている。この世に現象する時に命名として命の名を付けて生まれて来ている。生命に生きる為にこの現象界に降ろされているのである。



 

すべて御業は神が行なっている


すべての御業は神が行なっている

宇宙は1つなる生命であり、神以外、何も存在しない。生命はエネルギーであり、知恵である。
生命が顕す媒体として生命が自ら器を作っている。この器を自分と勘違いをしているだけである。
すべてのエネルギーは内から外へ流れる。これが法則である。外から内へは流れることはない。エネルギーは高い方から低い方に流れる。
見えるものは内なる生命が形態を顕している。外なる見えるものがあるのではなく、内なる見えない生命が外なるものを顕しているのである。
すべては内なる生命によって現象が顕れている。内なる生命エネルギーを引き出して行くだけである。外からの知識は自分が自分の井戸を掘る為のアドバイスである。
内には全知全能の泉の井戸があり、人類には1人、1人の中に全知全能を汲み出す井戸があるのである。1人、1人がこの神の井戸を掘って行くだけである。神の御業は自らの中にあるのである。私の力、知恵はない。この姿、形は神によって造られた神の全知全能の力、知恵を放射する為の神の道具なのである。私という存在はないのである。神の道具を自分と錯覚し、自分が行なっていると思っているだけである。
神のみが、生命のみが存在するのである。



現象はバイブレーションの変化


現象はバイブレーションの変化

見える現象は低バイブレーションの為に起きる現象である。現象をあると信じるとその波動になってしまう。想っている波動に同調されてしまう。
その波動を認めるとその波動になってしまう。
この現象は高波動の生命波動が現象化しているのである。造り主は高波動、造られたものは低波動、低波動が故に現象化しているのである。高波動であれば現象化することはないのである。
宇宙の万象万物は高バイブレーションなる波動が万象万物を造っている。
現象だけを見て現象があると思う心が現象の波動同調し、これに囚われ、自分で自分を縛ってしまう。
本来の我は空の高波動なのである。本来の我は現象の低波動の見えるものではない。内なる高波動の空が我である。

 

2023年11月22日水曜日

現象というサタン


現象というサタン

サタンが別におり、サタンに憑りつかれることではない。サタンは存在しない。自分が創り出す迷妄なのである。この世は霊界であり、意識の世界である。意識によって生み出すことのできる世界である。
良いことを想えば良いことが顕れる。悪いことを想えば悪いことが顕れる世界である。
サタンに囚われるのは見える現象をあると思う心が造り出す。現象の動く形があると信じることで、自分が創り出す迷妄なのである。この現象は神の働く場であり、神の器なのである。
動くが故、あると信じ、これに囚われてしまう。これがサタンである。
サタンは自分自身の心が造り出す。現象は生命が外なる現象を通して生命活動をしているだけなのである。
これは外なる現象を見てあると信じる心が波動を下げてしまったために起きる現象である。
外なるものは内なる生命の顕す場である、我は内なる生命が我であって外なる姿、形が我ではないのである。外なる姿、形が自分と思ってしまうとこれに囚われ自縛しててしまう。
サタンはいないのである。
生老病死も現象なのである。あるのは永遠なる生命のみが実在している。
 

全体から見るのか?部分から見るのか?


 全体から見るのか?部分から見るのか?

宇宙は全体で1つであり、その中に小我の我が存在する。小我の我は全我の我によって造られ小我の中に全我が宿っている。
全我が小我を造っているのなら小我は全我であり、全我は小我である。すべては全我の中の顕れである。我は全我であり。小我である。
すべては1つなる生命の化身が小我なる中に宿る全我なる我である。
この小我である現象を自分と見てしまうと内なる生命を見失うことになる。
小我は全我の顕れである。全我が小我を顕している。
小我の部分的な衣装を自分と見てしまうと現象に流されてしまう。内なる全我なる生命からものを見る。