2023年10月6日金曜日

瞑想、黙想すると何故心が落ち着くの?


瞑想、黙想すると何故心が落ち着くの?

何か悪いことをすると本心の心が痛む。1つの心、本心の時は落ち着く。善悪の心になる時、心が乱れる。心が1つの時、心が安定する。目を閉じ、外からの情報を遮断することで心が落ち着く。
宇宙には1つなる心しか存在しない。善悪の心は存在しない。外の見えるものを見てあると思う心がもう一つの自我という実在しない心を造ってしまう。
善悪の心は自分で創り出す迷いの心であり、これによって心が乱されてしまう。
身体は心と肉体のバランスで維持されている。心が乱れるとアンバランスになり、気が乱れ、気の病になってしまう。気は心であり、気心である。心が肉体を管理している。
体調が悪くなると栄養なるものを取ったりするが、その原因は気の乱れなのである。
何故、気が落ち着くと心が落ち着くのか?宇宙は1つなる完全なる陰陽の法則の生命体である。この完全なるバランスによって現象化されている。この法則から外れることで、アンバランスになる。法則違反である。病気という気づきの反則切符が切られる。
すべて完全の中に居りながら、不完全にしているのは自分自身なのである。
瞑想で心を落ち着かせることもできるが、瞑想は本当の自分に気づくためのものでもある。



 

人間は生まれながらにして幸せなのである。


人間は生まれながらにして幸せなのである。

宇宙は中性なる生命体である、生命は中性であり、中道なのである。中道が生命なのである。
生命エネルギーが現象を通して顕われている。
現象は宇宙が完全バランス故に姿、形に顕れている。
このバランスを崩しているのは外でもない自分自身なのである。
何故バランスを崩すのかというと表現媒体を自分自分自身と思い違いをしてしまう為に逆にバランスを崩してしまう。
完全なるものをアンバランスにしているのは自分自身であることに気づかないだけである。
この現象は顕現道具であることを知らず、自分のものであると思ってしまう為に諸行無常の四苦に苦しめられてしまう。外を見るから不完全になってしまう、自分で生きようとしてしまう為にバランスを崩してしまう。初めから幸せなのに幸せを外に求める為にバランスを崩しているだけなのである。幸せに青い鳥は内にある。初めから幸せなのです。外に幸せを求めようとするからアンバランスにしているだけである。宇宙は善のみの世界であり、これを善悪の分離感にしているのは自分自身である。

 

見えるものしか信じない人類


見えるものしか信じない人類

人間は目に見えるものだけしか信じようとしないが、見える肉体を動かしているのは想念である、意識である。意識は見えない。肉体が動かしているようにも思えるが、見えない想念が肉体を動かしているのである。
「想念は実現の母」である。
見えない意識が肉体を動かしている。その事に中々気づこうとしない。すべては心が造り出しているがこれを信じるものが少ない。
この見えるものは見えないものによって現象化されていることを知れば争いの世界から抜け出し、不変不動の世界に戻ることができる。実在しない有限の世界から永遠なる実在の自分に戻る。実相の世界は無我の世界、形を持たない世界故に観自在、無碍自在の世界、これを理解して行く。形を持っている我から形を持たない我に意識を切り替えて行く。

 

思考停止で超能力がでるの?


思考停止で超能力が何ぜでるの?

能力は脳にあるのではないということになる。
能は外からの五感の情報を処理するように感じる。
知恵、力は脳にあるのではなく、直観啓示でくるものである。
瞑想でも五感を遮断する方法を取る。今まで学校で学んできたことは意味がないということなのか?
肉体には何の力もない。生命の表現媒体であるということだった。
人間が超能力を出すのではなく、生命の全知全能の知恵、力を表現する媒体として肉体があるということなのです。宇宙の知恵、力を人間という仮相媒体を使って現わすということだったのである。
人間は自分で知識を学び、能力を出していると思っているが、その知恵、力は生命の全知全能の力だったのである。人間はこの世に存在しないのだから。
仮相の現象には能力は備わっていないのである。モーツアルトも音符が降ってくるという言葉を聞いたことがあるが、すべては神の子であり、人間は生命の知恵、力を受けて使っているだけだったのである。偉そうに人間はしているが、人間は神の表現媒体であり、人間という存在は実在していないということになる。仮相、雲のように消えてしまう存在である。消えてしまうものに執着すると自縛してしまいかねない。


 

宇宙神、宇宙は神であり、神は宇宙である

 宇宙神、宇宙は神であり、神は宇宙である

宇宙神 

 宇宙は神なり

神は宇宙なり

神は生命なり

生命は愛なり

原因 結果の法則

原因が神なら結果も神

原因が神 生命なら

結果現象も神 生命なり

万象万物は神 生命の化身である

人間も神の子 神の宮である


自分を持つと何故ダメなのか?


分を持つと何故ダメなのか?

宇宙の本源本質は中性である。1つなる無限大の生命体である。すべてのすべてありてあるものは1つなる生命体である。自分は存在しないのである。無我なのである。これが本当の自分なのである。
宇宙は1つの生命体であり、見えるものは見えない生命の化身、現象である。
この現象は生命の表現媒体として顕れている。2つで一つなのである。色心不二である。
この現象が自分として自分を騙しているのである。現象はすぐに変化してしまう諸行無常の世界である。現象は何故顕れているのかというと見えない生命を表現する為に現象として顕れているのである。
この現象を自分として錯覚してしまうと生老病死の四苦に囚われ、諸行無常の四苦に持て遊ばれてしまう。この見えるものに囚われると諸行無常の仮相界から抜け出すことはできなくなる。生きている内の成仏できなければ死んでは成仏できないと云われている諸因である。
この世で自分を持ってはいけないのである。無我が本当の我であり、観自在、無碍自在の我が本当の我に気づいて行く場所が仮相界である。本宿に戻る為の仮相界であることに気づくための場所である。消え行く世界でお金を儲けに生まれて来ているのではないのである。
気づいたものから本宿に戻って行く世界である。

 

人類がこの仮相界から脱げだすには?


人類がこの仮相界から脱げだすには?

人類の歴史を見ると争いの世界である。これを当たり前に認め、この仮相界の中で生きている。
宇宙は中性であり、陰陽の法則で永遠なる生命体であることを理解しなければならない。

ロケットを地上から飛ばすと地球は宇宙と仕切りがなくつながっている。空に浮いている。
これは宇宙は1つの細胞体であるということである。
人間も小宇宙と呼ばれている。人間の中身は細胞体である。小宇宙と大宇宙は同じもの、すべては細胞体であるということになる。
すべては1つにつながっている。宇宙は1つなる生命体であることが理解できる。
現象の見えるものから、判断すると分離感になり。本質が見えなくなってしまう。
キリストはこの1つなる宇宙のことを天と云い、すべての本源本質である中性なる生命を原因なき原因と呼んでいる。キリストはこ゚の生命から説かれている。
この生命はみることはできない。この見ることのできない生命を神と呼んでいる。
聖書は見えない生命を説くのに例え話を使わざるをいない。モーゼの十戒も見える奴隷解放ではなく、人間一人一人が現象に囚われている姿を奴隷解放という見える形にしているだけなのである。宇宙は1つなる生命体であり、奴隷を造り出しているのは自分自身であることに気づくためのものである。宇宙には善のみで、悪は存在しないのである。善悪の木の実は一人一人が勝手に創り出した迷妄であることに気づけば仮相界から抜け出すことができる。
仮の宿から本宿に戻る。天地一体、天は本源本質、原因、地は本源本質の現象、結果の世界。
見えるもの、見えないものは2つで1つであることを理解して行く。すべては自分の中にある。天は自分の中にある。すべては1つなのである。