2024年1月7日日曜日

1人、1人は霊太陽なり


1人、1人は霊太陽なり

太陽には休みはない。常に光輝いている。無所得の愛であり、この太陽は我が裡に光輝いている。
この霊太陽のエネルギーによって人間という現象肉体は形態を維持している。この霊太陽が生命であり、神であり、仏である。汝の神は汝の中の中におわします。
宇宙は1つなる生命体であり、分生命として万象万物、人間に宿り、現象化させている。
すべてのすべてありてあるものは神である。1つなる神が多神を顕している。
宇宙には1つなる生命のみが実在している。見えるものはすべて1つなる生命の化身である。
人間は神に似せて造られたと云われている。人間は神そのものであり、人間にだけ自由意志が与えられている、鉱物、植物、動物には自由意志は与えられていない。
この自由意志は生命エネルギーを顕現する為に与えられているものを波動の低い見える現象で使ってしまい、神への約束を破ってしまった。絶対に開けてはならない竜宮からの玉手箱を開けてしまった人類、人類という浦島太郎がいる。善悪の木の実である。この開けてしまった玉手箱を元に戻すことができる。それは現象を見る波動から生命意識へのバイブレーションを上げることである。開けてしまった玉手箱の蓋は自分で閉めなければならない。1人、1人の中に元に戻す、光の種が蒔かれている。







 

原因、結果は同じもの 1つである


原因、結果は同じもの 1つである

造り主と造られたものは同じものである。
原因が神なら結果も神である。原因が神で結果は人間であるということははない。結果現象の中に神が宿っている。内を看れば神、外を見れば人間の形。外は現象であり、現象を顕している内在している神が化身として現象の中に宿り、現象化されている。内から見れば空である。
この現象だけを見て現わしている内在の神を見ないだけである。
原因、結果は1つである。造り主が神で造られたものが人間ということはない。
原因が神、光であれば、結果も神であり光である。顕されている光の陰をあると信じる自我の心が分離感として見てしまう。原因が光りなら、結果も光りなのである。
この自我の心の肉我の心を変性させ、霊肉一体、天地一体の1つなる生命に気づくために仮の宿の現象の幻想の世界に滞在している。すべては1つ。原因と結果は1つであることに気づき、空の我に戻る。現象我の我から実相の我に戻るための場所がこの世なのである。
原因が光りであれば結果も光であり、現象の世界には現われりことはないのである。
人間という低波動の実在しない我を信じる為に、波動を下げ、現象化してしまったことを悔い改め、本来の我に戻り、現象界から解脱して行く。
元の高バイブレーションンに波動を上げて行く、自分で下げた波動は自分で上げなければならない。


原点は1つ これが真理である


原点は1つ これが真理である

宇宙の原点は1つである。火(か)、水(み)、神である。2つで1つの中性なる生命である。
すべてのすべてありてあるものは1つなる実在の生命だけが独存する。これ以外実在しているものは何も存在しない。
宇宙は最終的に1に戻る、原点は1つである。
宇宙は1つなる細胞体である。すべて同じ包み、同胞である。
細胞の中には空間はない。あるとすればそれはガンであり、宇宙は存在しないことになる。
生命細胞体の中には隙間がない。1つの中に隙間空間は存在しない。空間が存在しないということは時間も存在しないということになる。
1つなる無限生命、普遍生命である。こ゚の中性なる生命が宇宙生命であり、中性であるからこそ様々な現象を顕すことができるのである。地球細胞体は天地に分けられた天地一体の惑星である。惑星と名付けた人は遊び心のある人である。惑わす星である。幻想の星なのである。
人類はこの惑わす星の中で惑わされ続けている。それが輪廻である。現象を見る為に波動が低くなり、本来の我に戻れなくなる。自分で自分をそのようにさせている。そのため波動を上げることができず、輪廻を繰り返している。
人類の原点は空の高バイブレーションである。原点なる空である。空が万象万物を現象化させている。空なる我が人類の帰る場所である。帰る所が知らなければ帰ることができないとイエスが云われている。





 

一心集注とは


一心集注とは

一心集注と云っても簡単に集注でできるものではない。一心集注とは心の底の底からの集注である。
ただ座って心を集注させれば良いというのではない。一瞬集注という意味を理解しなければならない。只座って心に集注すれば良いという意味ではないのである。
息ということを理解しなければならない。身体の使い方を知らないで瞑想をしても無理なのです。身体には人間が動かすことのできない筋肉がある。呼吸に関する筋肉、深層部呼吸筋がある。神が使う筋肉である。この使い方を知ることで、上虚下実の身体の使い方が理解できるようになる。
昔は自然とできていた呼吸筋の使い方が今は椅子の生活の為に小手先に使い方になって呼吸が浅くなってしまった。小手先の肺尖呼吸になってしまった。脳をリラックさせ使うことができなくなってしまった。
上半身に力が入る動き方では脳の脳幹部の思考を停止することができない。
息づかいは自らの心と書く。これを理解することが大切である。息づかいと呼吸は同じではない。今は便利過ぎて身体の動かし方を忘れてしまった。当たり前のことが当たり前にできなくなってしまった。今、息づかいを理解できる人がどれだけいるのだろうか?殆どの方が肺尖呼吸のようになってはいないだろうか?中心が取れた息づかいができれば周囲の影響は受けなくなる。不安、悩みを持ち込まなくなる。息は自らに心である。我の息は神の息なのである。



 

見えるものは実在していない


見えるものは実在していない

人類は見えるものだけを信じて生きている。
原因、結果の法則がある。見えるものにはそれを顕す原因が宿っている。
宇宙は限りなく小さく、限りなく大きい霊の世界である。
完全バランス、完全調和の永遠なる中性なる霊光の世界である。宇宙は1つなる細胞体であり、その中には時空間は存在しない。宇宙は中性なる1つなる生命体。無形無双に生命体。空の世界である。この無形無双の中に見えるものは存在することはない。見えるものは1つのものの顕れであり。現象である。現象は1つの生命が万象万物。人間を顕している。見えるものは1つなる生命の化身であり、実在はしていないのである。バイブレーションの変化でエーテル質料が変化しているに過ぎない。変化であって質料が無くなることはない。原点は不変不動である。
原因、結果の法則であり。原因なる生命が結果である現象を顕している。見えるものは消える存在であるが、見えるものだけを人間は実在していると勘違いをして、現象に持て遊ばれている。
あなたの生命エネルギーを誰が利用しているのでしょうか?
全知全能の神を人間だと思わせ、神のエネルギーを誰が抜き取っているのだろうか?



 



すべての中心は神である。


すべての中心は神である。

すべての力は内なる中心から出ている。
内なる中心生命が外なる形態を顕している。
内なるものは見えない生命エネルギー。内なる生命エネルギーが外なる現象を顕している。現象は消えて行くが生命は永遠である。質料は変化して消えても生命は不変不動なのである。こ゚の生命が我なのである。
外なる現象は波動が低い為に見えているが。波動を上げることで内なる波動に同化させることができる。外なるものが内なるものを認めるとき、外なるものは内なるものになると。
外なる現象は内なるものが造っており、内なるものと外なるものは1つである。
霊肉一体である。本当の我は外なる人間ではなく、内なる生命の我である。
この本当に我に戻るには意識の切り替えで日常の身口意により、高バイブレーションの我に意識レベルを上げて行く。中なる心が生命であり、すべての万象万物の根源である。
すべてのすべてありてあるものは1つなる生命の現象である。

 

高波動が低波動の現象を顕している


高波動が低波動の現象を顕している

宇宙は1つなる高バイブレーションの生命界。中性なる愛の生命体。こ゚の生命の世界を神、仏と呼んでいる。キリストが云われるように原因なき、原因の永遠なる愛の世界。人間は宇宙の塵にて人間の形が造られ、息を吹き込まれたと。
すべての万生万物は宇宙の塵にて息を吹き込まれて様々形態を顕し、息が吹き込まれ、生命活動をしている。宇宙は1つなる愛の法則であり、すべての本源本質である。万象万物はこの1つなる宇宙生命が宿り、様々な現象を顕している。
人類はこの現象に宿り、生命はこの現象から抜け出さず肉体に生きてしまった。本来の我は生命なのであるが。
本来は無限生命であるのに現象に意識を合わせてしまい、高波動の我を低波動の現象に合わせてしまった。自分で波動を下げ、本来の我に戻れなくなっている。
現象を見る為、波動を下げている。この波動を上げることで、本来の我に戻ることができるが、これに気づかなくなってしまった。1つなる生命が多神を顕しているのである。
1つなる生命は全知全能の力、知恵であり、現象の中で遊んでいる内に帰る所が分からなくなってしまった。糸の切れた凧のように幽界を浮遊し、輪廻転生を繰り返している。
戻るにはバイブレーションを上げて行かなければならない。迎いには来てはくれない。自分で戻るしかないのである。