2022年8月4日木曜日

不老不死


 不老不死

肥田先生の著書に書かれている秦の始皇帝の話。
秦の始皇帝は自分の中に不老不死の仙薬があることに気づかなかった。とハッキリ断言している。
何故、そのように言い切ることができるのか?
宇宙は1つなる生命体で永遠なる生命体であることを理解されていたからである。宇宙は無限生命であり、人間は永遠なる生命体の現象であることを知っていたということになる。それが強圧微動術、天真療法の骨子にもなっている。
宇宙は完全バランスの中性の生命体であり、陰陽の生命バランスの生命体である。
宇宙倫理の書も原点は1つである。この宇宙には1つなる生命体があるのみで人間は存在しないことを知っておられた。常に肥田先生は無私、無我でおられる。この世を「塵の世」と云われている。人間を離脱されていたのだと思う。肥田先生のことを波動の低い人間が詮索することはできない。次元の低い人間が理解できない世界に肥田先生は居られる。肥田先生の逸話に中に「的に当てると100発100中であり、当ててから投げるから当たるのだ」と云われても一般の人には理解はできない。宇宙は永遠なる無限生命体であり、人間1人、1人はこの無限生命の中に存在していることは確かなことである。生命は1つであり、肥田先生の生命も我々の生命も同じ生命である。誰もが宇宙の永遠なる生命の中に生まれ、生かされている。故に人間には死は存在しない。形を見るから死と思ってしまうが、死と思ってしまうと自縛ですが、昆虫のように脱皮して行くのであって仮の宿から本宿に戻る途中なのである。青虫がさなぎになり蝶になって行くように人間も人間芋虫から解脱して行くのである。死は次へのステップなのである。
故に不老不死なのである。見える世界は実在しない仮相界であり、この世を生きようとすると生老病死の四苦に悩まされ、低波動の人間から抜け出せなくなる。「汝に見るもの受け継がん」また気づくまで人間をさせられる。




2022年8月3日水曜日

中心の鉄扉(2)


 中心の鉄扉

中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは
     米を抱いて餓死するが如し
肥田先生のこの言葉は非常に重い言葉である。人間に生まれているものの中にどれだけ中心の鉄扉を開いているものがいるのだろうか?
中心力とは宇宙力であり、宇宙と1体になっている人間である。自分を持っていない人である。
自分を持っている人間は自我であり、宇宙全体が本来の自分であり、姿、形を自分と思っている人間は「米を抱いて餓死するが如し」である。人間という姿、形に囚われてしまうと自縛してしまう。肉体を自分だと思ってしまうとキリストが云われるように肉に生きるは死である。肉に死ぬものはまた肉に生まれると。肉体鍛錬の為に肥田式を学ぶものは死であるということになる。中心力が我であることを理解し、本当の我は肉体でなく、中心生命が我であることを理解して行くことを意味している。見える肉体波動は低バイブレーションであり、高バイブレーションになると形を持たない。肉体は実在してはいない。1つなる宇宙生命体の1つの細胞体が人間という小我の化身であり、化身の中に本来の我が宿っている。宇宙生命の法則、愛の法則に基づいて生かされている存在であり、全体で1つであり、個々のものは存在していない。1つなるものの中に2つはない。無限生命の中に有限なる生命は存在しない。
人間は人間もいて、宇宙もあると思っている。中心の鉄扉とは我は人間ではなく、1つなる宇宙生命であることを理解する。肥田先生が「天寵無限」という言葉も宇宙と1つになって使えるという意味である。人間がいて宇宙力は絶対に使うことはできないのである。
中心力は誰にでも備わっており、誰もが1つなる中心生命から生まれている。この中心力を使い、人間の低波動を高め、肉体を離脱させて行くことを中心の鉄扉に隠されているものである。


2022年8月1日月曜日

中心力は宇宙生命力


 中心力は宇宙生命力

肥田式は中心力活性法であるが、肉体は宇宙の生命体の現象であり、肉体を幾ら鍛えても現象を鍛ええることになる。肉体は中心力によって造られている。中心力は目に見えない。肉体を通して使う。何かの媒体がなければ中心力を現わすことはできない。故に心身強健術なのである。肉体と心を1体として使うことで中心力が肉体を通して現れてくる。中心力は肉体の強化のために使うのではない。肥田先生は中心力を使うことで地球の波動を上げているはずである。これが第3次世界大戦を防ぐ方法だからである。
中心力は宇宙力であり、現象の消え行く人間は使うことはできない。自分を無くし、無我の状態になって初めて使うことができる、人間は現象であることを理解できなければ使うことができない。大悟徹底されたということは悟空であり、肉体離脱をされているということである。
中心力を使うことは、見える世界から見えない生命の世界にもどる為の足掛かりである。
現象界の人間を生きることではない。宇宙は1つなる生命体であり、1つの中で争いは必要はない。強くなろうとすることは現象を生きようとするものである。肥田先生が云われているように「この世で強い人間は地位も名誉もお金も命もいらない」人間である。人間を捨てたものが一番強い。無我であると。




2022年7月30日土曜日

宇宙法則と聖中心道


 宇宙法則と聖中心道

宇宙はたった1つの法則であり、聖中心という言葉も宇宙を現わしている。すべての万象万物は1つなる生命体の現われである。中心、中なる心、これが本源、本質である。絶対調和、中性バランスこれが宇宙であり、聖中心である。
1つなるものの中に2つはない。見えない生命が肉体を通して現わしている。肥田先生は常に自分を持たない。常に無我の状態でおられる。聖中心ということは其処には自分は存在しないということである。自分というものを持ってしまうと宇宙の無限なる生命エネルギーを引き込むことができない。無限の生命エネルギーは無限生命と一体とならない限り引き出すことはできない。聖中心とは宇宙と一体という意味である。肥田先生は永遠なる生命体になっているということである。肉体離脱をされているということである。肉体から離れているということである。其処には死はない。大悟徹底とは人間を卒業したということである。
人間は実在しない。人間は神の子であり、神の器であると肥田先生が云われるのはこ゚の自覚をすでに持っているということである。また光という言葉も使われるのも聖中心は光であることも自覚している。この世で一番強い人間は地位、名誉、お金、命もいらない人間であると云っている。人間の根源は人間ではなく、形を持たない原子と電子である。宇宙の愛の法則が我であるということを云わんとしている。そうではないと肥田先生が云われたら肥田先生は偽物になってしまう。一般の人たちには中々これが理解できない。
肥田式の形を学んでも意味はない。肥田式の型を使って自分の中に内在している神と向き合う。これが肥田式の奥に隠されている真理である。真理は神である。聖中心である。




2022年7月29日金曜日

21世紀は仮相の我から実相の我へ


 21世紀は仮相の我から実相の我へ

宇宙は1つなる生命体。永遠なる無限の生命体。無限の生命体の中に有限なるものは存在しない。見えるものは存在しない。人間がいるではないか。いるということは本当に実在しているという意味である。人間は消えてしまう。実在はしていない。偽り、幻影であるということになる。実在ということは永遠ということである。すべて見えるものは消えてゆく存在。現象である。実在するものが万象万物を現象化させている。
今、人類は現象を実在していると勘違いをしており、現象に生きようとしている。現象は結果であり、結果に生きようとするとバランスを失う。結果はすでに完全バランスであり、これを加工し、使おうとするとバランスを崩す。文明が発達すればするほど自然界のバランスを崩すことになる。文明の行く末は天変地異になる。結果から起こす結果である。結果を直そうとする時、結果で対処しようとする為、治す事はできない。バランスを整えれば改善するのに、お金は必要としないのに。バランスの中に生かされていることに気づくことである。
21世紀は無限大の空より、無尽蔵の質料を取り出し、具現する時代に入ってくる。
それには1人、1人の意識のバイブレーションを上げて行く必要がある。仮相の結果から実相の原因に戻ることで21世紀は見えてくる。仮相に生きるから争いを起こす。実相に生きれば争いはない。すべては1つであるから。1つなる生命の具現だから。仮相の人間は本当の自分を知ることにより、21世紀は光の争いのない世界になって行く。


2022年7月28日木曜日

中心力10、部分力9とは


 中心力10、部分力9とは

肥田式強健術は心身強健術とも云う。
宇宙は1つなる生命体であり、宇宙は陰陽のバランス生命体である。すべてはこ゚の法則に基づいて永遠なる生命体が維持されている。こ゚のたった1つの法則に基づいている。これが真理である。
肥田式は肉体鍛錬法ではなく、心と肉体を一体として使う鍛錬法である。
力は筋肉を付けて力を生み出す方法ではなく、中心バランスを取る時、宇宙の力、知恵を使うことができる。人間は宇宙の子、神の子であり、神の器である。
すべての力は誰もが持っているのである。
この力を引き出すには心身が一体にならなければ引き出すことができない。
力は外にはない。力は裡から引き出す。その力、知恵を肉体を通して現わす。
心身が1体になるには心(神)と肉体が1つになるには自分を消して行かなければならない。
肥田先生はこのことを「必死の気」という言葉を使っている。無私、無我になることで引き出すことができる。中心力10、部分力9ということは心が主体で肉体は従で使うということである。
中心力10、部分力9ということは上半身と下半身の使い方で下半身は力を造る所、上半身は力を使う所という意味でもある。上半身は弓のように使うことで遠心力を使う。遠心力とは遠い心の力と書く。見えない神の力である。人間は見える現象、現象を操っているのは見えない心である。自分が姿、形の見える人間と思ってしまうと心のエネルギーを使うことはできない。
必死の気という事は無我という事である。 人間を捨てた時に宇宙の無限大のエネルギーが使える。無我で宇宙力を使えるという事は人間という姿、形は表現媒体であるという事である。
中心力10、部分9という意味は肥田先生は必死の気、無私、無我の事の事をおっしゃっていると思います。中心力が我であるということになる。



2022年7月27日水曜日

現象界は何をすべき所?


 現象界は何をすべき所?

宇宙は1つなる生命体。1つなる生命体の中に有限なるものは存在しない。見えるものはすべて現象であるということになる。
万象万物はすべて1つなる生命の現象である。故に宇宙は無限生命ということになる。1つの躬(体)
の中には時空間は存在しない。宇宙に浮いている惑星は1つの中の現われであり、空の中に浮いているように見えるだけである。浮世である。惑星という字は惑わす星と書く。
太陽系の惑星は人間の内臓にようなものである。
見えるものはバイブレーションが低い為に見える象になっている。バイブレーションが高ければ見えない。人間が見えるということはバイブレーションが低いということになる。
見えるものは見えない高バイブレーションの生命が質料に宿り、形態を維持させている。人間という形は見えない生命体が宿らなければ形が現れることはない。
人間という象が何ぜ造られているのか?すべて必然である。人間という形を通して地球の波動を上げるためである。人間形態には宇宙の根源エネルギーが宿り、肉体は波動を上げる為の器である。見える器は根源エネルギーの道具である。道具を動かす見えない生命エネルギーが器を動かしている。この器を自分と思ってしまうと低波動の器の消極の波動に囚われてしまう。
波動の低い人間という仮相に生き、自縛してしまう。
これが固定観念というものである。人間の器は宇宙の高波動を地上界に降ろす為のものであり、人間という姿、形を現わしているということは本来の仕事をせず、地の世界を這いまわっているということである。器の役目を果たさないで遊んでいたために姿、形を持っている。私も同じ落第生なのであるが。本来の我に帰るには肉体に宿る生命エネルギーと一体になり、霊肉1体になり、波動を上げ、成すべきことをして仮の宿から本宿に帰る。地上界のバイブレーションを上げることができれば醜い争いはなくなる。争いは低波動の為に分離感が生じ、自己保存の為に起きる現象である。
争いも現象である。雨上がりに虹がでるようなものである。現象は無くなっても本質はなくなることはない。人間は死ぬと思っているが、質料が変化するだけでなくなることはない。細胞の集合体がバラケルだけである。