2023年10月17日火曜日

本来の我とは



 本来の我とは

宇宙は無我の境地とも云われているのは宇宙は形を持たない無形無双であるということである。
これが全知全能の生命体である。
現象界で、人間が力を出す時、どのようにするのかというと、自分を捨てた時に力が出る。
お金も、地位も名誉もいらない。自分の命もいらない人間は現象の安全弁が外れる為に力がでる。これが無我ということである。
宇宙はこの無我の状態。現象には心を止めない状態。現象の思考を停止させて行く。
現象界から離脱するために意識の切り替えを行い、生命エネルギーと一体になり、エネルギーを放射させ、本来の我に戻って行く、現象界は本宿に戻るための学びの場所である。
特別な難行苦行は必要ない。日常の中で行う。この世を楽しく生きる場所ではないのである。



分離感が人間を現象から抜けさせなくしている


分離感が人間を現象から抜け出せなくしている

天地一体。表裏一体、すべては1つである。
宇宙は1つなる細胞体であり、細胞が分裂し、集合化し、見える現象を顕している。
この見えるものだけをあると思ってしまうことが 分離感になってしまう。
見えるものは現象なので常に変化して止まない世界である。見えないものは実在で永遠なのであるが、見えるものには寿命がある。
人間は生まれることを誕生と云い、お祝いをする。誕生ということは不完全であるため、地上界にまた戻されたのであり、本当は不幸なのである。
死ぬ時も悲しむが、昇天するのだから喜ばしいのであるが。
考え方が真逆なのである。
この真逆な生き方を変えない限り、昇天することはできない。
結果から原因を求めることはできない、

今の宗教を見ていると今の現象の困りごと相談所になっている、キリスト、仏陀は困りごとを解決する為に現れたのですかね。
モーゼの十戒ではないが、現象利益を優先する偶像崇拝するものと神の生き方をするものに分かれる時期に来ていますね。



2023年10月16日月曜日

姿、形の背後にあるもの


 姿、形の背後にあるもの

姿、形は現象であり結果現象である。現象を顕しているものがある。見えるものは必ず顕しているものがある。宇宙は1つなる無限生命体である。これ以外何もない。生命は見えない。法則である。
この法則が万象万物を顕している。顕しているものと顕れているものは同じものである。色心不二である。
原因、結果である。この2つで1つであることを忘れ、見えるものだけをあると思う心が分離感を生み出してしまう、分離感は完全なるものを不完全にしてしまう。意識の問題である。
不完全にしてしまうとそれを完全にしようと外部からエネルギーを得ようとする。
其処に争いが起きる。善悪の木の実と云うのは分離感である。
人類はこの分離感に気づくまで、修行をさせられる。
姿、形は外なるもの、外なるものは内なるものが顕している。見えるものの背後にあるものが実在しているものである。背後にある原因が我であり、現象の結果の我は仮相である。
仮相は内なる生命の操り人形であり、何の力も持ち合わせていない。生命の現わす媒体としての器である。


完全の中に不完全は存在しない


完全の中に不完全は存在しない

宇宙は完全なる永遠なる愛の生命体である。
この完全の中に不完全はあり得ないのである。
不完全にしているのは自らがバランスを崩しているだけである。
人間は宇宙生命体の中に存在する。完全なる中に存在する。完全であれば不安、悩み、恐怖はなく、不変不動の世界の中にいることができる。人間というものが不安、恐怖、悩みが生じているのは変化して止まない現象を見て、これをあると思う心が、完全なる心を不完全なる心にしているだけである、完全意識が、外なる現象に向くと意識の波動が下がり、諸行無常の不完全な中に陥ってしまう。
完全なる意識を不完全な心に下げてしまったのは自分自身なのである。
生老病死の四苦から解放するには意識を元の完全なる意識に戻さなければならない。
すべて自己責任である。すべて法則通りに動いているだけである。
法則違反をしておいて神様にお願いしても自分自身が直さない限り、元には戻らない。
宇宙は愛の法則の中で永遠なる生命活動をしているだけである。
人間が何かをしようとすると必ずアンバランスを起こす。
人間が文明を発達させればさせるほと、地球の波動は下がり、地球をアンバランスにしている。結果から発想するからアンバランスを起こす。原因は完全である。完全からの発想でなければ、バランスを崩してしまう。

 

人間の自由意志


人間の自由意志

宇宙は1つなる生命体であり、1つなる生命が様々な形態を造り、生命活動をしている。
生命が生きているだけである。人間は生命のはたらく場であり、人間だけには自由意志が与えられている。意識を自由に使うことができる。

想念は実現の母であり。想念意識で想ったことを顕すことができる自由意志が与えられている。
良いことも悪いことも好きなことができる権限が与えられている。この想念力を人間は外なる現象に使ってしまっている。その為、諸行無常の世界をあると思い、この四苦の囚われ人になっている。本来の生き方から外れてしまっている。自分で選び、自分で自縛している。
自分で自分を縛り、苦しめている。

 

高気圧と低気圧


 高気圧と低気圧

自然界は高気圧と低気圧が同居している、高気圧は晴れているが、低気圧はその中で、曇り、雨、雪、様々な現象を顕す。雨、雪は見えるが1つのものが変化しているに過ぎない。
人間も低バイブレーションになると様々な表現が顕れる。1つのものが変化して顕われてくる。高気圧は気圧が高い為、安定している。
形があるということは低バイブレーションであるということである。
バイブレーションが高くなれば、様々な現象に惑わされなくなる。

山岡鉄舟の言葉の中に

晴れてよし  曇りてもよし 富士の山

         もとの姿は変わらざりけれ

現象は様々なものが顕れる。諸行無常の世界。外の意識は低バイブレーション。
この低バイブレーションの波動を高バイブレーションに上げることで、低バイブレーションで起きる現象には左右されなくなる。
すべては1つのバイブレーション変化で起きてしまう。低バイブレーションの世界は何が起こっても不思議ではない世界である。
心は高バイブレーションであり、この心の波動を下げてはならないのである。
見えない高バイブレーションの世界が生命の世界であり、不変不動の世界が我の世界である。
この世界に戻らなければならない。1つなる生命にならなければ使命を果たすことはできない。


天地一体とは


 天地一体とは

天地一体、見えるもの、見えないものは1つである。人類はこの天地二体で見ている。分離感で見ている。
1つのものを分離してしまうとどうなるのか?
見えない天が見える地を顕している。現わされている地だけを見てしまうと見えるものは現象であり、変化の止まない無常の世界に囚われてしまう為、自己保存の法則により、争いが起きる。
1つなる生命は永遠なる生命でであり、永遠なる生命の現象なるものに囚われてしまい、本来の我は永遠なる生命である事を忘れてしまっている。現象の見える姿、形が自分ではなく、見えない生命が我であることに気づく。この気づくために現象界、地の世界の現象の中に蒔かれた光の種である。蓮の華のように、自分の光の種に気づき光の華を咲かせて行く。
天地一体、すべては1つの生命体が存在している、分離感は自分自身を自ら不調和にしてしまっている。すべての悩み、不安は現象だけを見て自分で自分を縛ってしまっている為に起きる現象である。これは意識の切り替えて修正できる。自分で造ったカルマは自分で取るしかないのである。意識の切り替えで即、取ることができる。