2023年12月8日金曜日

見えるものはすべて神の被造物


見えるものはすべて神の被造物

宇宙は無形無双の神霊である。
見えない神霊が多神を造っている。原因、結果は同じもの。天地一体。すべては原因の結果である。すべては1つである。
原因は宇宙法則であり、見ることはできない。この完全バランスによって生命が活動をしている。
神我顕現とは無限大の生命エネルギーを媒体、神の宮を通して顕すことである。
生命エネルギーは無所得で放射されるものである。個人的に与えるものではない。
見えるものは神によって造られた被造物ではあるが、これは神によって神が使う道具であり、自我人間が勝手に使って良いものではないのである。
神が働く道具を勝手に使っているのが人間という実在しない迷妄の自我である。
この現象を自分と錯覚してしまうと波動が下がり、生老病死の四苦に囚われ、再度現象界に再生されてしまう。私も含め殆どの人類はこの事に気づかないために再生させられている。
我は宇宙の本源本質の見えない神霊であり、見える現象は神によって造られた神の働く場なのである。すべては神1元なのである。すべてのすべてありてあるものは神である。愛の法則である。

 

宇宙に自我は存在しない


宇宙に自我は存在しない

宇宙は神1元の無形無双の生命体である。姿、形の人間は存在しない。現象としての姿、形があるだけで、その現象を見て自分があるという意識が自我である。現象は神によって造られた神の顕現する為の宮である。神の働く道具である。
現象を見てそれが実在していると思う心が自我というものを自ら造ってしまっているだけである。本来の我は現象に宿る神の我になる。
現象は神の顕現道具ということは現象の中に神が宿っていると云うことになります。
現象の中に内在している神がいるということは自分自身は神であるということが理解できますね。宇宙は神1元の霊界、神霊界であり、1つの世界しか実在していないということはすべてが神であり、自分自身も神であるということになる。神は全ての原因であり、法則である。
神は無形無双の法則である。神様が特別にいるのではない。宇宙法則が神なのである。
無限の法則を社に祀ることはできない。
 

すべては1つから紐解く


すべては1つから紐解く

宇宙は1つなる神の法則によって動いていると言うと神様が別にいると思ってしまう。
宇宙そのものが法則であり。宇宙そのものが神なのである。宇宙は1つなる生命の法則であり、この絶対バランスによって万象万物は現象化している。現象化している中には必ずそれを顕すものが宿り、現象を顕している。神は100%完全であり、すべて完全に現象化されている。
問題なのは諸行無常の現象を見てしまう為、不完全を認めてしまう。その為、現わしている原因は完全なのに変化する現象を見て不完全であると信じてしまう。意識したものが現れる。意識が完全であれば完全なるものが顕れるが、意識が不完全なる意識であれば、不完全なるものしか顕れない。見えるものは完全なる高波動から現象化している。
現象化している内に高波動の神が宿っている。外なる現象があるのではなく、それを顕している内なる原因があるのである。1つなる生命が現象を顕しているだけである。2つで1つである。





 

2023年12月7日木曜日

神とはバランスのことであり、愛であり、慈悲である

神とはバランスのことであり、愛であり、慈悲である

この絶対バランスが宇宙生命の本体であるが、目には見ることができない。こ゚の生命によって様々な形の現象が顕わている。顕れているのであって現わしたものと顕れたものは別々なものではなく、1つなのである。原因結果は1つなのである。
見えない生命の顕われは現象を通して生命を顕現させるために造られた神の被造物なのである。神の宮、仏の宮なのです。1つの生命が現象を顕していると理解できれば、生命同士で争うことはなくなる。
爭うことで更に自分の波動を下げ、本当の高バイブレーションの我には戻れなくなってしまう。カルマの上書きをしてしまう。現象界で生きるのではなく、自ら下げてしまった波動上げるために現象化しているのである。本来の我は光である。
今まで人間と思ってきてしまった現象から実在の高波動に我に戻って行く世界が現象界である。
自由意志が持たされており、自ら波動を下げてしまった自分、下げてしまった波動は自己責任で行なわなければならない。やるもやらないも本人の自由ということになる。

 

2023年12月6日水曜日

現象という迷い道


現象という迷い道

宇宙は1つなる神1元であり、無限生命である。区切りのない無限大の生命、神である。無形無双の神である。神によってすべての現象は造られている。
神そのものは気体生命体であり、気体生命体が細胞を造り、集合化し、現象化させている。
現象化されたものは低波動になってしまう。現象を顕している高波動の造り主は現象の中に宿り現象化させている。意識が内なる高波動を意識していれば、現象に留まることはなくなるが、意識が外なる現象に意識が向いてしまうと低波動のなってしまう。
問題なのは低波動に自分が下げてしまった波動は自分で元に戻さなければならない。意識の問題であり、自分で上げなければならない。
元の高バイブレーションンの気体生命に戻るまで再生される。
外に意識を向けることの意味を理解しなければならない。
形を見るから人間と思ってしまうが、内なる細胞から見れば生命である事に気づく。
外なるものは内なるものの反映である。霊肉一体、自分の中に神が存在するということである。1つである。



 

すべてのすべてありてあるものは神である


すべてのすべてありてあるものは神である

読んで字の如く、すべては神であるということである。見えるものも見えないものも神。聖書にそのように書かれている。それを認めるだけではないか。
宇宙そのものが神である。神様が他にいるのではないと云っているのに神を外に求めてしまっている。
なぜ外に神を求めてしまうのか?
それは現わしているものが見えない霊であり、現象だけが見えている為に現象だけがあると信じてしまっているためである。
見えるものには必ず顕しているものが存在している。原因結果の法則である。
今まで見えるものだけをあると信じて来てしまったためにこの先入観はから離れることができないのである。一度信じてしまうと聞く耳を持たない。自分の思い込みで真理に素直になれない。すべては1つである。1つでなければ無限生命にはならない。
地球からロケットを打ち上げた時、地球には仕切りがないことに気づいているではないか?
仕切りがないということは1つであると云うことではないか。この世は浮世とも呼ばれている。
宇宙は1つの霊体であり。霊が現象化しているということを認めない。宇宙霊、宇宙は霊であることを。地球を惑星と云う。惑星とは惑わす星と書く。現象という意味である。
地球という現象、太陽系という現象、見えるものはすべて見えない生命、神、愛の法則の顕われである。
問題なのは霊が本体であり、これが本当の我であることを忘れ、見える現象に生きてしまうと本当の我に戻ることができない。生老病死の四苦に囚われ、これに気づくまで人間をしなければならないということである。
これは人間という現象には自由意志が備わっているため、これを犯すことはできない。現象界から本当の我に戻る為に現象界の仮の宿に今。滞在している。
1つの生命体の中で、争いすることは現象という波動の低い見える外側の姿の中に本当の我が宿っていることに気づくために現象界がある。病気も死も本来の我に気づくためのものである。本来の我は神であり、仏であり、生命エネルギーそのものである。
すべてのすべてありてあるもの 神である。法則である。神とは法則のことである。
自分の中に天国が存在している。三位一体である。天国も地獄も1つである。地獄は自分が創る迷妄である。天国には姿、形は存在しない。無形無双の神霊が実在するだけである。
自我から聖書を読むと真理は紐解けない。真理は1つなのです。2つあるということは間違いである。すべては1つなる生命の現象であり、自分の所の宗教が1番正しいというのは宇宙の法則から外れている。それに執着するものは本来の我に戻ることはできなくなってしまう。



自然界の作用、反作用


自然界の作用、反作用

宇宙は愛の法則であり、自然界は愛の作用、反作用が働く。宇宙は愛の法則なるが故に現象界では作用、反作用のエネルギーの法則が働く。
グライダーもヨットもこの作用、反作用の力を利用している。自然界はこのエネルギー、神のエネルギーを使っているというよりも神、生命が自然界ではこのエネルギーを通して生命活動をしている。
越冬する為に生死を掛けて8000メートルのヒマラヤ超えをするアネハツル。
アネハツルは8000メートルのヒマラヤを超えるのに上昇気流を使う。山の雪が温められると其処に上昇気流が発生する、この上昇気流の外側には必ず打ち消す下降気流が起きる。
上昇気流を捕らえるには下降気流に飛び込まなければ上昇気流を捕まえられない。
必死の覚悟で何度も何度もトライし、下降気流に押し戻され、羽を痛めながらヒマラヤの屋根を超えて行く。作用、反作用は2つで1つである。下降気流の奥には必ず上昇気流が確実にある。これが 自然界の法則である。この法則を理解し、目の前の事柄に前向きに挑戦して行く。
目の前の事柄はすべてエネルギーなのである。
鳥たちも自分の力を使わずにこの上昇気流によって生かされているのである。
人間という現象には内に上昇気流が存在しているのである。
キリストが云われるように必ず、確実に手よりも足よりも近い所に光の種が蒔かれている。
光りによって現象化してる。現象化しているものがあるのではなく、顕しているものが実在ししている。その顕しているものは現象の中に宿っている。これが本当の我である。