2024年1月7日日曜日

原点は1つ これが真理である


原点は1つ これが真理である

宇宙の原点は1つである。火(か)、水(み)、神である。2つで1つの中性なる生命である。
すべてのすべてありてあるものは1つなる実在の生命だけが独存する。これ以外実在しているものは何も存在しない。
宇宙は最終的に1に戻る、原点は1つである。
宇宙は1つなる細胞体である。すべて同じ包み、同胞である。
細胞の中には空間はない。あるとすればそれはガンであり、宇宙は存在しないことになる。
生命細胞体の中には隙間がない。1つの中に隙間空間は存在しない。空間が存在しないということは時間も存在しないということになる。
1つなる無限生命、普遍生命である。こ゚の中性なる生命が宇宙生命であり、中性であるからこそ様々な現象を顕すことができるのである。地球細胞体は天地に分けられた天地一体の惑星である。惑星と名付けた人は遊び心のある人である。惑わす星である。幻想の星なのである。
人類はこの惑わす星の中で惑わされ続けている。それが輪廻である。現象を見る為に波動が低くなり、本来の我に戻れなくなる。自分で自分をそのようにさせている。そのため波動を上げることができず、輪廻を繰り返している。
人類の原点は空の高バイブレーションである。原点なる空である。空が万象万物を現象化させている。空なる我が人類の帰る場所である。帰る所が知らなければ帰ることができないとイエスが云われている。





 

一心集注とは


一心集注とは

一心集注と云っても簡単に集注でできるものではない。一心集注とは心の底の底からの集注である。
ただ座って心を集注させれば良いというのではない。一瞬集注という意味を理解しなければならない。只座って心に集注すれば良いという意味ではないのである。
息ということを理解しなければならない。身体の使い方を知らないで瞑想をしても無理なのです。身体には人間が動かすことのできない筋肉がある。呼吸に関する筋肉、深層部呼吸筋がある。神が使う筋肉である。この使い方を知ることで、上虚下実の身体の使い方が理解できるようになる。
昔は自然とできていた呼吸筋の使い方が今は椅子の生活の為に小手先に使い方になって呼吸が浅くなってしまった。小手先の肺尖呼吸になってしまった。脳をリラックさせ使うことができなくなってしまった。
上半身に力が入る動き方では脳の脳幹部の思考を停止することができない。
息づかいは自らの心と書く。これを理解することが大切である。息づかいと呼吸は同じではない。今は便利過ぎて身体の動かし方を忘れてしまった。当たり前のことが当たり前にできなくなってしまった。今、息づかいを理解できる人がどれだけいるのだろうか?殆どの方が肺尖呼吸のようになってはいないだろうか?中心が取れた息づかいができれば周囲の影響は受けなくなる。不安、悩みを持ち込まなくなる。息は自らに心である。我の息は神の息なのである。



 

見えるものは実在していない


見えるものは実在していない

人類は見えるものだけを信じて生きている。
原因、結果の法則がある。見えるものにはそれを顕す原因が宿っている。
宇宙は限りなく小さく、限りなく大きい霊の世界である。
完全バランス、完全調和の永遠なる中性なる霊光の世界である。宇宙は1つなる細胞体であり、その中には時空間は存在しない。宇宙は中性なる1つなる生命体。無形無双に生命体。空の世界である。この無形無双の中に見えるものは存在することはない。見えるものは1つのものの顕れであり。現象である。現象は1つの生命が万象万物。人間を顕している。見えるものは1つなる生命の化身であり、実在はしていないのである。バイブレーションの変化でエーテル質料が変化しているに過ぎない。変化であって質料が無くなることはない。原点は不変不動である。
原因、結果の法則であり。原因なる生命が結果である現象を顕している。見えるものは消える存在であるが、見えるものだけを人間は実在していると勘違いをして、現象に持て遊ばれている。
あなたの生命エネルギーを誰が利用しているのでしょうか?
全知全能の神を人間だと思わせ、神のエネルギーを誰が抜き取っているのだろうか?



 



すべての中心は神である。


すべての中心は神である。

すべての力は内なる中心から出ている。
内なる中心生命が外なる形態を顕している。
内なるものは見えない生命エネルギー。内なる生命エネルギーが外なる現象を顕している。現象は消えて行くが生命は永遠である。質料は変化して消えても生命は不変不動なのである。こ゚の生命が我なのである。
外なる現象は波動が低い為に見えているが。波動を上げることで内なる波動に同化させることができる。外なるものが内なるものを認めるとき、外なるものは内なるものになると。
外なる現象は内なるものが造っており、内なるものと外なるものは1つである。
霊肉一体である。本当の我は外なる人間ではなく、内なる生命の我である。
この本当に我に戻るには意識の切り替えで日常の身口意により、高バイブレーションの我に意識レベルを上げて行く。中なる心が生命であり、すべての万象万物の根源である。
すべてのすべてありてあるものは1つなる生命の現象である。

 

高波動が低波動の現象を顕している


高波動が低波動の現象を顕している

宇宙は1つなる高バイブレーションの生命界。中性なる愛の生命体。こ゚の生命の世界を神、仏と呼んでいる。キリストが云われるように原因なき、原因の永遠なる愛の世界。人間は宇宙の塵にて人間の形が造られ、息を吹き込まれたと。
すべての万生万物は宇宙の塵にて息を吹き込まれて様々形態を顕し、息が吹き込まれ、生命活動をしている。宇宙は1つなる愛の法則であり、すべての本源本質である。万象万物はこの1つなる宇宙生命が宿り、様々な現象を顕している。
人類はこの現象に宿り、生命はこの現象から抜け出さず肉体に生きてしまった。本来の我は生命なのであるが。
本来は無限生命であるのに現象に意識を合わせてしまい、高波動の我を低波動の現象に合わせてしまった。自分で波動を下げ、本来の我に戻れなくなっている。
現象を見る為、波動を下げている。この波動を上げることで、本来の我に戻ることができるが、これに気づかなくなってしまった。1つなる生命が多神を顕しているのである。
1つなる生命は全知全能の力、知恵であり、現象の中で遊んでいる内に帰る所が分からなくなってしまった。糸の切れた凧のように幽界を浮遊し、輪廻転生を繰り返している。
戻るにはバイブレーションを上げて行かなければならない。迎いには来てはくれない。自分で戻るしかないのである。


 

2024年1月5日金曜日

知識は人の為ならず


知識は人の為ならず

外は現象体、内は霊体であり、霊肉一体であるが、現象の見えるものから見えない霊には行けない。固体世界から気体の世界には入ることはできない。
知識で幾ら学んでも霊界には入ることはできない。直感啓示の世界なのである。知識からは入ることはできないのである。
知識は人の掘った井戸であり、自分が経験して掘った井戸ではないのである。人の掘った井戸の結果を覚えても自分のものにはならないのである。1流のシュフの作り方を教わっても同じにはできないように。造り方を教わればできると勘違いをする人がいる。
これは自分でやってみなければできない。まずその前に大切なものは料理を作る料理人は料理が好きなのである。
料理をしたこともないものが真似ても教わった通りには出来ない。自分で経験を積んで料理を覚えて行くしかないのである。
以前に茶懐石料理の作り方をしておりましたが、料理人の先生の言うことをしっかりメモを取っていても身に付かないのである。
自分で自分の井戸を掘らないものは身に付くことはないのである。
霊的なものに入るには日常で身口意の実践がなければ知識の世界から抜け出すことはできないのである。義務的ではできない。積極的な心がなければ身には付かない。

 

2024年1月4日木曜日

信仰とは


信仰とは

信仰は現象界にある言葉である。宇宙にあるのは波動だけである。見えない1つなる生命波動、光が実在している。
すべては1つであり。この波動により、様々な形態が創造され、万象万物が現象化させている。人間は見えるものと見えないものを分離させて見てしまった。神の被造物は原因結果の法則であり、1つのものを2つに分離させて神と現象を分けてしまった。
信仰とは外に求めるのではなく、自分の内にある造り主、神、仏に目を向けることである。現象があるのは必ずその中に原因である生命が宿り、現象を顕している。
間違ってしまうのは現象は見えるが、顕している原因である生命は見えないからである。
この内なる見えないものを見る。原因を見る。これが信仰である。
宇宙は1つなる生命体であり、1つなる生命が様々な形態に宿り、表現させている。
造り主と造られたものは1つである。天地一体である。すべては1つである。
宇宙は高波動であり、光であり、人間は意識を見える低波動の低い波動に合わせてしまっている。昇天とか悟空とか云っているのは固体波動を気体波動に上げることを示しているのである。
現象界は非常に波動が低い、人間の現象を顕している内なる波動は本来の気体波動、本来の我である。これに現象界で気づき、自らの波動を上げる場所がこの世の仮の宿である今の現象界である。
内なる見えない本当の我に気づく。自分を知ることが信仰である。
裡に意識を向けると不安、悩みは起きてこない。平安である。すべての答えは汝の内にありである。お金はかからない。これをお釈迦様は日常の身口意の実践として示されている。
宇宙の法則に沿って生きよと。自然界はこの法則によって生かされている。この見えない法則が自分自身であることに気づきなさいと。信じなさいというのは自分の中に居る見えない神、仏を信じて疑わないことを。これが信仰である。信仰を外に求めると利用されてしまう。
すべては自分自身の中にある。