2024年1月26日金曜日

すべて持っています


すべて持っています

宇宙は完全完璧な生命体。この中に居るものはすべて完全なのである。完全なる中に不完全は存在しないのである。人間も完全なる故に現象化している。
完全なる中で何かを得ようとしなくても良いのである。外から求めるものは必要ないのである。
得ようとするものは奪われる。すべて持っているのに更に得ようとする。これが持っているものも奪われる。あるのに更に求める。人類はすべて持って生まれている。これをどのように使うかである。
人間は宇宙の塵にて人間の形を造り、息を吹き込まれたと云われている。
宇宙は創造に原理である。想ったことが顕れる世界である。
外なる現象に意識を合わせると外なるものが顕れる。人間という現象は内なる生命の現象の顕れであり、本当に自分は内なる生命が我なのである。全知全能の力が知恵が我なのである。
すべては1つなる生命の御業が現象道具を通して行う。
人間は完全なる神の顕わであり、人間ガ知識を学んで何かををすることではないのである。
御業を成しているのは生命が御業を成しているのである。





 

現象界で何をすべきなのか?


現象界で何をすべきなのか?

宇宙は1つなる実相界である。永遠なる久遠の世界である。
この中で万象万物は現象化している。久遠の世界で息をしている。
人類は地球という波動の低い所に現象化している。
現象は波動が下がることで現象化される。
人類はこの波動の低い状態の中で生かされている。人類が生きているのではなく、人類という姿、形に宿り、生命が宿っているだけのことである。人間の姿、形には何の力もない。
生命が人類という姿、形に宿り、生命活動をしているだけである。
人間には知恵も力もない。生命、全知全能の力、知恵を肉体を通して顕している。神の御業で行っているだけなのである。これを勘違いをして自分の力で行っていると人間は勘違いをしているだけなのである。
人間は神によって造られた神の宮であり、神のエネルギーを顕現する為に造られている。
人間という姿、形は神の宮であり、神によって造られた神の道具なのである。人間は道具の名前なのである。人間という存在は宇宙には存在しない。現象は実在していないのである。
人間は神の道具であり、道具は神の御心を素直に顕現しなければならない。
我は神の道具であり、神そのものである。造り主が神なら、造られたものも神である。
人間という仮相から脱皮し、神としての仕事をしなけれなならない。それが神我顕現である。
仮相の姿,形に惑わされてはいけないのである。神としての使命を果たさなければならない。
仕事をして元の天上界に戻らなければならない。仕事先で遊んでいてはならないのである。
我は人間という仕事道具を使って神我顕現の仕事をしなければならない。
できなければ、できるまで地上界から離れられない。輪廻を繰り返し、できるまで帰ることはできないのである。

 

2024年1月25日木曜日

ダイヤモンド宮殿の使い方


ダイヤモンド宮殿の使い方

すべては1つなる生命の顕われであり、1つとは神であり、仏であり、生命、光である。
1つなる生命の光を細胞を通して外に顕現させるために肉体細胞が現象化されている。
この肉体細胞は内なる光を顕現する為に造られている。この肉体を光る細胞体にすることで顕現させる。光る宮殿、ダイヤモンドの宮殿。初めからダイヤモンドの宮殿なのであるが、この宮殿に1つなる良心だけのものに、外から邪心という心を入れてしまっている。その為、ダイヤモンドの宮殿は外に顕現できないでいる。人間という自我が遮っている。
この自我という邪心を取り除くには光をより強くすることで邪心という影は消えて行く。
内なる光を意識し、光の強さを増して行く。
人間という意識が自我であり、邪心である。このダイヤモンドの宮殿は神の顕現道具であり、人間のものではないのです。人間と思っている肉体も神によって造られた顕現道具なのである。人間と思っているのは神の顕現道具に人間という名前を付けているだけなのである。
我は人間ではなく、神の子であり、神の器なのである。
神に似せて造られた万物の霊長なのである。
 

神、仏とは何ぞや?


神、仏とは何ぞや?

神、仏とは何かを聞いたことがない。宗教というイメージは葬式しか思い浮かばない。お釈迦様は亡骸は焼いてガンジス川に流しなさいと云われていながら、今の仏教は亡骸をお墓を作り、大切に葬る。魂が抜けているカルシュウムを大切にし、お経を唱え、お布施を頂いている。お釈迦さんが云っていることとは違いではないか。
イエス、お釈迦様はお墓を作って祀りなさいとは云っていない。
イエス、お釈迦様は何を云おうとしていたのか?。キリストも釈迦も宇宙の法則を示していたのである。
人間は実在していない。生命の現象である人間に囚われて生きてはならないことを云われている。1人、1人の中に生命、神、仏が宿り、人間という現象を顕している。本来の我は生命である事を云われている。宇宙は生命体であり、宇宙即我とお釈迦様は云われている。釈迦はその事を慈悲という形で話をしている。キリストは愛という形で話されている。
神、仏とは宇宙生命のことなのである。宇宙法則、永遠なる法則、その法則の現象として万象万物が現象化している。人間もである。人間は生命であり、生命が仏であり、人間という現象の中に宿る法灯明、自灯明が仏であり、我なのある。
現象が我ではなく、内なる法灯明、自灯明が我であることを示そうとしたのである。イエスも汝の神は手よりの足よりも近い所にいると。
お釈迦様、イエスは同じことを云われている。このことが理解できずに子羊達は毛をはぎ取られている。赤ずきんちゃんである。宗教家達もこれを知らないで罪を犯している。
私の近くでも葬式に数百万を要求されて檀家をやめた人もいる。幾らで良いですよと云いながら少ないと文句を言う。これがお寺のイメージですね。葬式の時だけ顔を出す。お寺って何だろう。コロナで檀家を抜け出す人が多い。私もお墓は必要のないことが理解できたので処分し、今まで続いた来た宗派からも離れました。
そろそろ葬式仏教も終わりのように感じます。お釈迦さんがこのように言っている、この経典にはこのように書かれているとか?
仏の教えは色々と言うが、仏とは何かということを説明できる坊主がいない。言って欲しい、仏とは何かを?これを知らないで法を解いても意味がない。原点が解らないものが法を解く資格はないと思うのだが?如何ですか?間違っていますか?


 

2024年1月24日水曜日

人類の勘違い


人類の勘違い

宇宙は1つなる見えない生命体である。永遠なる久遠なる世界である。
この中の久遠の生命の中に人類は生命によって具現されている細胞体である。宇宙は1つなる生命細胞体である。生命細胞体が様々な形態を顕し、生命が息している。
宇宙は高バイブレーションの為に見えない生命体、霊体である。宇宙霊、宇宙は霊である。
無限生命、普遍生命である。
宇宙は高バイブレーションの霊界であり見える世界ではないのである。地上界は波動が低い為に見える形を顕している。顕しているのは見えない高バイブレーションの生命である。
人類はこの見えないものが見えるものを顕していることに気づかず、見えるものだけを信じて分離感を持ってしまった。その為、1つの中で争いを起こし、喧嘩をしている。
生命は1つであり、1つであることが理解できれば争いは起きない。身内で争い、殺し合いをしているのが人類である。醜い争いに気づかない。
宇宙の法則は1つなる無限生命である。この1つなる生命に戻るまで輪廻が繰り返される。
これに気づいたものから波動を上げ、解脱して行くことで、地上界の波動を上げ、人類が自らの波動を上げることで地上界の波動を上げることができる。自分自身の為に生きることが地球環境を良くすることになる。本当の奉仕は自分自身の波動を上げることである。本当のボランティアである。




 

人類の気づき


人類の気づき

今、人類は大きな迷い道に迷い込んでいる。
人類は文明を発達させて来ているが。この文明の発達は正常な発達ではない。文明が発達すればする程、地球の環境が悪くなる。
人類は宇宙は細胞体であることを理解していない。人間が生きようとすればするほど現象を顕している微生物が殺され。形態を維持する微生物がいなくなる。
人類は自分が生きるためのもっとも必要な地、水、火、風、生命の4原則を犯し、文明を発達させている。この気づきのメッセージが異常気象であり、地震である。最大のメッセージが天変地異である。
宇宙は中性バランスであり、これに逆らうと戻されてしまう。
人間が生きるために草を枯らす除草剤を撒くが撒いた土には武生物が殺されるため、耐力がなくなり。砂のようになってしまう。微生物が土の耐力保っていることに気づかない。
地上界を支える微生物が少なくなり、地上界はバランスを失っている。いつ大きな地震が起きても不思議ではない状態である。すべ人類のエゴが引き起こしてる。
これは天災ではなく、人災である。
人類が宇宙の法則、完全法則を無視し、経済を発達させる結果である。
宇宙は完全バランスであり、このバランスを犯しているのは人類だけなのである。
1人、1人が自分のバランスを取ることで地上界を元のバランスに戻すことができる。
お金はかからない。意識を変えるだけである。


 

2024年1月22日月曜日

宗教とは何ぞや?


宗教とは何ぞや?

宗教という字は宇宙を示すと書く。
宗教は宇宙の法則を解き明かすという意味である。
それを地上界で示されたのが、釈迦であり、イエスである。
宇宙は1つなる生命体であり、1つなる生命が多神を顕している。宇宙の根源は1つである。原点は1つである。すべてのすべてありてあるものは1つなる生命、神、仏なのある。
宇宙は高バイブレーションの見えない霊界である。生命界、永遠なる久遠常在のとこしえの世界である。
キリスト教とはキリストの教えではなく、キリストとは何かを教えることであり、仏教も仏とは軟化を教えると書く。キリスト、仏が何かを知らなければ教えることはできない。
聖書をバイブルと云う。波動、バイブレーションのことである。仏典、経典も仏を知る為のアドバイザーである。
キリストは神は汝の手よりも足よりの近い所にいると。釈迦も憶念せよと。
キリストも釈迦も生命のことを云われいる。生命は可視の存在ではない。生命は汝の内にあると云われている。それを理解する為の聖書であり、仏書である。
神、仏が汝の内にあるのならお寺、教会が必要なのだろうか?
宇宙は無形無双の霊体である。人間は万物の霊長なのである。すべて霊の現象なのである。
波動が低いために現象化しているだけなのである。水蒸気が水になり、氷のなっている。すべて同じものである。見えるものはすべて波動の現象であり、人間は神に似せて造られており、自由意志がある為に使い道を間違い、本来の目的を忘れ、現象の形の形に惑わされ、仮相界に留まっている。宗教は神の子を神の戻すことが宗教であると思うのだが?
人生相談することではないと思う。仮相界は本当に我に気づく。間違って使ってしまった自由意志を本来の使い方に戻すことで、本宿に戻ることができる。有限から永遠なる我に戻る。
汝の神は汝自身なり、汝の仏は汝の中にあり。これがキリスト、仏陀が云わんとしたことである。人間は見えるものに囚われて見えない本当の我を見失っているだけなのである。
1人、1人の中に神、仏が生命が宿り、人間という現象を顕している。