宇宙は無形無双の生命波動。これが宇宙の生命体。永遠なる中性なる生命体。宇宙は生命の波動で鳴り響いている。
この生命波動が質料に宿り、質料を通して生命が生きている。すべては生命波動が様々な形態を顕し、生命が形を通して顕れている。
無形無双の生命波動が質料を通して現象化している。本当の我は無我の生命波動であり、姿、形ではない。姿、形は幻想である。幻想を顕しているのは無形無双の生命波動である。
姿、形は生命が質料が宿り、現象として見えるものになっている。
原因、結果は1つである。原因が本源本質であり、現象に原因が宿り、顕れ形となっている。
形は変化するが、原因は不変不動であり。永遠なる生命波動、神である。
肥田式強健術・聖中心道の鍛錬記ブログです。肥田先生は第二次世界大戦後、第三次世界大戦に向けて宇宙倫理の書を書かれている。何故書かれたのか。その意味は?宇宙は1つなる生命体である。1つの生命体の中に争いをは存在はしないことを云われたのだろうか?焼失してなくなりましたが。それを紐解いて行くブログです。
2023年11月7日火曜日
生命波動
肉体は神の御心を顕す表現体
神は生命体。全知全能の力、知恵、創造の原理。
神は見ることはできない。何かの媒体を使って現わさない限り。肉体は神を表現する為の媒体である。
今、人類は未だ善悪の木の実を食べ続けている。
何故、善悪の木の実を食べ続けている?
善悪の木の実と云うのは実在しない現象をあると錯覚する心である。分離感である。この分離感は対立、抗争を生み出してしまう。
人間は現象を信じているため、善悪の木の実から抜け出すことはできない。
この善悪の木の実から抜け出すにはどうするか?
善悪の木の実というのは見える現象があると思う心であり、意識波動が上がれば善悪の木の実を食べることはなくなる。意識を現象の人間意識から生命意識に切り替えをする。
これだけで善悪の木の実を食べなくても済む。爭い、対立、戦争を防ぐにはお金はかからないのである。
21世紀は原因、結果の法則の1つなる世界。生命の争いのない世界になって行きます。
我は原因なる我
宇宙は1つなる霊体である。人間は万物の霊長と云われるように見えるもの、見えないものすべて霊である。見えるものも霊なのであるがそれを物質と名付けている。すべて1つの霊体である。
この宇宙霊は全知全能の力、知恵であり、創造の原理である。こ゚の生命体が1つなる宇宙生命霊である。こ゚の生命が様々な形態を顕し、その中に霊が宿って働いている。
見えるものがあるのではなく、見えない生命が肉体を通して働いている。
現象肉体をキリストは乗り馬と云い、仏陀は乗り船と云われている。
宇宙には1つなる霊、1つなる神、1つなる仏、1つなる宇宙のみが実在している。
見えるものは生命の化身である。宇宙は見えないものも霊、見えるものも霊なのである。
すべてが霊でなければ意識を使うことはできない。神意識、想念意識、意識は創造の原理意識である。姿、形は霊が形を止っているだけなのである。水蒸気が雲の形を顕しているように。
2023年11月6日月曜日
キリストとは法則のことである
宇宙には1つなる法則以外何も存在しない。
キリスト、仏陀とは法則のことであり、姿、形ではない。形に手を合わせているのは偶像崇拝である。
すべてが法則の中にあり、神、仏を祀るものではない。すべての中にキリスト、仏陀が存在しているのである。宇宙そのものがキリスト、仏陀である。
宇宙は1つなる無形無双の霊であり、姿、形を持たない。現象を持たない。
宇宙の現象は生命、キリスト、仏陀、法則の顕われである。
現象を崇め立てているものは神を知らないものである。
神、仏は形を持たない無形無双の宇宙生命体である。宇宙には生命は1つしか実在しない。
宇宙の中に神を祀ることはできない。宇宙そのものが神なのであるから。
1つの中に対立、争いは存在しない。争い、対立するものは神を知らない、自分も知らないということになる。現象を認めるものは原点には帰ることはできない。
すべて天から降りて来ているのに現象の波動の低い状態では高波動の原点には戻ることはできない。生きている内に成仏できなければ死んでは成仏できないと云われているのはこの意味である。
すべては神の御業
宇宙は1つなる生命体。万象万物は生命の化身。人間も宇宙生命体の化身である。1つなる生命が形態を創造し、生命活動をしている。見える形態が生きているのではなく、1つの生命体が生きている。人間という化身も1つなる生命の現象で人間の形態もすべて生命の御業が表現している。万象万物はすべて神の宮であり、働く場である。
見えるものはすべて神が御業を成している。宇宙は1つなる生命の表現媒体である。この生命の表現媒体をあると信じてしまうと生老病死の四苦に惑わされてしまう。
消え行く現象をあると思う心が自分を自分で苦しめてしまう。
現象は生命の表現媒体なのである。生命の働く道具である。これを自分と錯覚し、迷い道に自ら迷い込んでしまっている。
自分で迷い込んだものは自分で抜け出さねばならない。それが肉体離脱である。元々1つなる生命であり、我は現象ではないのである。自分は存在しない。無形無双の宇宙生命が、我である。
神を外に求めるとどうなるのか?
自分自身が神そのものであることに気づいて行く。
神を外に求める偶像崇拝では神を見つけることはできない。自分自身が神なのであるから。
神を外に求めると分離感になり、対立、争いが起きる。
外に神を求めるということは現象を認めるということであり、実在しないものをあると信じる心を持つということになる。
自分自身が神、仏であるのに偶像を崇拝することは神、仏から更に神から離れて行ってしまう。
其処にそれを利用する輩が顔を出してくる。
宇宙は1つなる法則であり、この法則が神、仏なのである。
すべては神の法則、仏の法則の中に存在している。何もしなくても初めから1人、1人は神、仏なのである。
見えるものはすべて偶像であり、これに囚われると外に神、仏を求めるようになる。
神は自分自身であることを忘れて。仏は自分自身なのである。外に神、仏を求めると利用され、地獄から抜け出せなくなる。
人間の成すべき使命とは
地球惑星は天と地に分けられた天地一体の惑星である。神に似せて造られた人間は何をすべきなのか?
宇宙は1つなる生命のみが独存している。
この生命体が人間という仮相を顕している。1つなる生命の現象である。
この生命の現象である人間のすべきことは神の法則である全知全能の力、知恵、創造の原理を表現する為の媒体を使い、生命を顕現して行く使命が与えらている。
その為に現象の中に神の種、光の種が蒔かれている。こ゚の種を発芽させ、華を咲かせ、地上界の波動を上げ、本来の天に戻って行く。その為の天地一体の地球惑星である。現象に惑わされずに使命を果たす。「惑わす星」の中で。人類は惑わされ続けている。未だに善悪の木の実を食べ続けている。
昆虫のように脱皮しなければならない。見えるものに囚われず、分離感を持たず、自ら造るサタンに惑わされないように使命を果たして行く。
pしなければならない。