2023年11月19日日曜日

人間は生命の働く道具


人間は生命の働く道具

宇宙は1つなる無形無双の見えない世界。
1つなる生命の中に有限なるものは存在しない。
形の世界は存在しないということになる。

従って人間という存在はないということになる。
万象万物も皆、現象であって実在はしない。
万象万物は1つなる生命を顕す表現媒体として、道具として存在して存在している。
生命と表現道具は一体である。1つである。
この見えるものだけをあると信じてしまうと、分離感になり、争い、対立が生じてしまう。
変化して止まない現象は生命の働く場であり、生命を一時的に顕す消え行く道具である。
この消え行く生命の道具を自分と錯覚してしまう。顕す生命は永遠であるが、人間という仮相の道具は生命によって一時的に生命エネルギーを顕現する為の道具なのである。
この仮相という人間という道具に生きてしまうと自縛してしまう。また再生され、本来の生命に戻るまで再生される。



 

2023年11月18日土曜日

生命は媒体を通して顕れる

 


生命は媒体を通して顕れる

宇宙は霊質料と霊エネルギーの世界である。これが宇宙の本源本質である。この絶対バランスが生命であり、宇宙は中性なる生命体である。中性なる生命が全知全能の力、知恵、創造の原理である。
生命は見えない。見えない生命は何かの媒体を使うことで顕すことができる。
現象界は生命の顕われた世界。現象は生命の表現媒体。
現象は生命の表現する為の媒体であり、生命と現象は1つのものである。見えるものは見えない生命の顕われ。生命そのものである。生命が形を止ったもので、生命そのものである。
生命の表現媒体である。生命を顕す表現道具である。見えるものは生命の表現道具であり、表現道具がなければ生命を顕すことができないのである。生命と表現道具は2つで1つである。表現道具は生命がなければ存在しないのである。表現道具があるということは生命がその中に存在しているということである。姿、形があるということは生命が宿っているということである。
この見える道具が曲者なのである。99,99%、この姿、形だけを信じ、見えない生命の表現媒体であることを信じない。我は顕している生命である事を信じない。姿、形を自分と思い違いをしてしまい、仮相の現象に生き、生老病死の四苦に囚われ、対立、争いの世界を生きている。死ぬ時、魂が抜けたと云いながら、肉体の我を信じている。疑わず、実在しない仮相の世界に生きている。



宇宙そのものが神、仏である


宇宙そのものが神、仏である

宇宙は1つなる愛の法則の無形無双の生命体である。
この無形無双の生命が全知全能の力、知恵であり、創造の原理である。
神様、仏様というと見えないが故に特別な存在であり、仏像のような形があるように云われてきていたが、それがそのような存在ではないことに気づかされた。今まで思って来た神、仏とは何だったのか?
宇宙そのものが神、仏、法則が神、仏であれば、神、仏を祀ることはないではないか?
今まで宗教に脅かされ、騙されてきていたのかと思うとゾッとする。
その分離感の為、争い、対立を起こし、同じ生命のなかで争いを起こして来ていた。
それを利用されてきた。赤ずきんちゃんだったのである。
戦争は宗教が起こしている。何の為の宗教なのかである。
でもこの世は仮相界であり、目くじらを立てる必要はないのである。宇宙は霊界であり、現象が消えてもなくなることではない世界である。仮相の世界で色々な経験を積み、生きている内に空に戻る為の世界である。
完全なる神、仏の世界の中で、形をある低波動の世界の中で、永遠なる生命が我であることに目覚める為の仮の宿。この低バイブレーションの見える世界から見えない高バイブレーションの空に戻って行くための現象界なのである。この世の一時的な仮相界で幾ら幸せになっても空の本当の永遠なる実相の世界、永遠の世界には戻れないからである。



 

見えるものには、必ず顕しているものがある


見えるものには、必ず顕しているものがある

無から有は顕れることはない。顕れているものには必ず、顕しすものが存在している。
宇宙は1つなる生命体。1つであれば顕れすことはできないのではないか?それは細胞体であるから見えない細胞が集合化して見えている。
顕すものがあまりにも小さい為、見えないだけである。原因、結果の法則である。見えるものと見えないものは2つで1つである。
人類は原因、結果の法則を理解すれば、争いはしない。見えるものだけを見るため、分離感を持ち対立、争いを起こす。
実在しているのは見えない生命、この宇宙の本源本質がすべての現象に宿り、現象化している。現象は実在していないが見える存在。実在している生命は見えない存在であるが、永遠なる現象化させている本源本質。見えない本源本質が現象を顕している。
私もこの現象界に存在しているということはまだ悟れず、また現象界に戻されたということである。落第生であるということである。


 

2023年11月17日金曜日

人間は実在してはいない


人間は実在してはいない

宇宙は無形無双の見えない生命体。この1つなる生命体のみが実在している。其処には姿、形は存在しない。あるのは見えない無形無双の空の世界。
形のない世界。その中には形は存在しない。人間は存在しない.万象万物も存在しない。その空の世界、生命界の宇宙。
人間は生命によって現象化されている。現象化されているものを見て生きている現象界。その見える現象の中で生きている者には見えるものを顕している見えない生命の世界を理解することをすることはできない状態である。
この見えるものを顕している見えない世界を理解するにはアドバイスがなければ理解は不可能に近い。そのように云われればなるほどと理解することができる。
水蒸気が水になり氷になることは当り前に思っていたが、水蒸気が本当の我であることを気づくことを考えても見なかった。宇宙は波動の世界であったのである。
見えない世界、生命の世界は高波動世界。それが神、仏の世界であった。現象化している低波動の人間形態はは高波動の見えないものが形態に宿り、現象として生命が顕している。すべては1つの世界。高波動の空の世界が現象として顕れている。故に低波動で高波動を見ようとしても見えない。我の波動を上げて行くことで実感して行くしかない。
悟りとは低バイブレーションの意識から高バイブレーションの意識に上げて行くことである。


 

神という自覚


神という自覚

宇宙は1つ目である。すべては生命。生命とは陰陽の法則。宇宙には沢山の法則は存在しない。1つの法則しか存在しない。生命は1つなる生命の法則であり、これを神、仏と呼んでいる。神、仏は遠く彼方に居るのではなく、1つなる法則の中に万象万物が現象化している。すべて神、仏という法則の中に人間という姿、形の生命の現象が顕れている。形は現象なので存在はしない。消え行く、変化する質料である。姿、形は宇宙の塵、水様質料で造られる。質料形態は生命が宿り、生きているように見えているだけで、質料形態は生命のエネルギーによって動かされているに過ぎない。
生命は見ることができない。これは実感し、自覚して行かなければならない。現象からは見ることはできない。自覚して行かなければならない。生命の世界は不立文字の世界、神の世界、仏の世界、霊界の世界である。高バイブレーションの為、見えない世界である。
見えるものは低バイブレーション、バイブレーションを上げて行けば見えないものになる。
神、仏が遠く彼方に居るのではなく、同じ世界にいるのである。三位一体の世界なのである。

 

これから神、仏になるのではない


これから神、仏になるのではない

宇宙は原因なき、原因。宇宙はそのままにして原因、神、仏である。人間、万象万物そのままにして神、仏なのである。
初めから一人、一人は神、仏の中にいる神、仏である。神、仏を人格的な存在と見てしまうと紐解けなくなる。神、仏とは宇宙法則のことであり、中性である。これを愛とか慈悲と云っている。仏様を飾って手を合わせることではない。
宇宙そのものが法則そのものであり、神、仏である。偶像崇拝とは神、仏は姿、形だけではなく、現象を見て起こる心、不安、悩み、外を見る意識が偶像になる。
生命、神、仏が様々な形態を現象化させている。見えるものは神の化身である。現象は顕れた像であり、変化してしまう生命の化身である。現象に神が宿り、顕している。顕しているものは実在あって、顕されているものは内なる生命を顕す為の器であり、生命を顕す為の一時的な現象であり、消え行くものである。見えるものは実在の仮相である。