2023年12月15日金曜日

現象界は人類の学びの場である


現象界は人類の学びの場である

原因、結果は1つと云うことは原因と結果は同じものであるということある。
同じものであるというのは宇宙は1つなる生命が実在しているということでもある。
原因、結果というのは原因は見えない生命体であり、その生命細胞体が分子構造を組み現象化している。造り主と造られたものは1つであるということである。
宇宙は1つなる完全なる生命体、すべての創造原理である。原因は様々な形態を顕す創造原理、生命である。こ゚の生命が様々な現象を顕している。様々な姿、形があるのではなく、1つなる生命が様々な現象を顕しているのである。考え方が真逆なのである。
現象から見るから、他人がいると思ってしまうが、生命から見ると1つなる生命が様々な現象を顕しているということになる。1つから見ると争いはないが、現象の分離感から見ると対立、抗争と1つの中で争いが起きてしまう。今、人間界で争いが起きているということは実在しない現象の仮相界から見る為、この偽りの世界、仮相界から抜けせないのである。
今生界は本来の我に戻る為の仮相界であり、幼児期な人類の大切修行の場所なのである。
この学びの場所がなければ本来の我に戻ることはできないのであるが、人類は大切な学びの仮の宿を自ら壊している。実相界の無形無双の永遠なる生命界が本来の我であることに気づき、宇宙の三位一体の世界が宇宙生命体であることに気づく。この世はその為の仮の宿なのである。


 

波動の低いものが人に奉仕することはできない


波動の低いものが人に奉仕をすることはできない

宇宙は1つなる生命体である。1つの中に2つは存在しない。自分、他人は存在しない。
すべて自分一人しか存在しないのである。
何故、他人がいるのかというと1つなる生命の様々な現象があると思う心が他人がいると思ってしまうのではないか。
すべては1つなる生命しか存在しない。宇宙は1つなる生命が様々な形態を顕し、1つなる生命が様々な形態に宿り、生命活動をしている。実在しているのは1つである。
様々な現象を見てあると思う心が他人がいると思ってしまっている。
様々な人間がいると思うのではなく、環境によって様々な人間がいるのである。
人間を現象化しているのは1つなる生命であるが、その生命が分離感を持ち、自分があると思ってるだけである。その分離感はエネルギーが低い為に起きる現象である。エネルギーを与えることで、分離感は少なくなり、消えて行く。すべては1つなのであるから相手を変えるのではなく、自分自身のエネルギーを高めることで、相手が自分で変えるエネルギーを与えることができる。キリストが云われるように一番大切なものを与えなさいと云われるのは現象を造っている生命を与えなさいと。生命のパンを与えなさいと。生命のパンを与えるということは自分自身の波動を上げ、人にあげなさいと。波動の低いものが人に本当の奉仕をすることはできないのである。



















 

父が完全であるが如く、そなた達も完全であれ


父が完全であるが如く、そなた達も完全であれ

宇宙は1つなる完全なる生命体であり、永遠である。
すべての万象万物はこの完全なる1つなる生命体の中に存在している。完全なる中に生まれ、育ち、生かされている。
完全なる中において不完全は存在しない。
父が完全であるが如く、そなた達も完全であれというのはすべて完全の中にいるものはすべて完全であり、人間という姿、形を見てしまう為に不完全だと思っているだけなのであると。
現象から見るから不完全に見えてしまうが、内なる生命から見なさいと云われいる。
完全なる内なる生命が外なるものを顕している。外なる姿、形の人間ではなく、内なる生命が我であることに気づきなさいと云っている。生命のパンを食せよと云われ。現象の肉体に生きるは死てあるとも云われている。内なる生命に生きよと。すべては原点から見よと。
お釈迦様が云われる身口意の正しく見ると云うのも1つなる生命から見よと云うことである。



 

仮相意識と実相意識


仮相意識と実相意識

生きている内の成仏できなければ死んでは成仏できない。何故?
宇宙は神であり、意識界であり、神意識である。
意識の状態なのである。
宇宙は見えない生命意識、見えない生命が原因で、現象を顕わしている。本源本質は生命意識である。見えない生命意識だけが実在している。現象である見える物は仮想であり、実在はしていない。見えない生命を顕わす為に仮想として現れているに過ぎない、見えるものの中に見えない生命が宿り、見える現象は生命を顕わす為に現象化しているのである。

外なる見える現象の形の人間をあると信じてしまうと生老病死の四苦に囚われてしまうため、本来の自分に戻れなくなってしまう。本来の我は実在の空、生命なのである。
生きている内に成仏できなければ死んでは成仏できないというのは仮想の意識から実在の意識には戻れないということである。成仏とは仏になると書く。お釈迦様は汝の裡なる自灯明、法灯明を主としなさいと云われている。この自灯明、法灯明が仏なのである。
死んで仏になるのではないということである。
汝の仏は汝自身なり。汝の神は汝自身なり。すべては内にある。青い鳥である。

2023年12月13日水曜日

内は完全、外も完全


内は完全、外も完全

宇宙は1つなる生命体。1つなる生命体が様々な形態を顕している。現象の中には必ず顕すものが実在している。現象があるのではなく、見えない生命がある。生命が我であり、外なるものは生命の現象で2つで1つである。
外なるものは内なるものの反映であり、内なる生命、光があるだけである。
内は光であり、外も光である。内が光りで、外は人間ということはない。
外なるものは内なる光の放射媒体であり、内なるものの化身である。霊肉一体である。
主なるものは内であり、外なるものは内なるものの表現媒体になる。
見える外なるものがあると信じ、外なるもので動かそうとすると内なるエネルギーが使えない。不調和を起こし、現象がバランスを崩してしまう。外なるものは内なる霊の顕す媒体であり、外なる人間という形が生きるものではないのである。
心が乱れるのは現象をあると思う自我なる心が動かそうとする為に本心が乱れるのである。人間の心が乱れるということは地球環境のバランスが乱れるということになる。人間の心が天変地異を起こす。本心から動かせば人類も地球環境も乱れることはない。人類の善悪の心が地球という現象界を乱している、人間の1人、1人の心が乱れなければ、人間も地球も乱れることはない。これが宇宙の法則である。心に乱れがアンバランスが引き起こしている。独楽のように人間も中心軸が取れていればブレることはない。

 

人類の生き方


人類の生き方

陰を認めれば陰が顕れ、光を認めれば光が顕れる。
宇宙は意識界であり、想ったことが顕れる世界。
「想念は実現の母」である。良いことを想えば良いことが顕れ、悪いことを想えば悪いことが顕れる。この法則を自我でするのか?神我でするのかである。
本来自我は存在しない。本来の我は神我であり、光である。宇宙は光1元の世界であり、我は光より生まれた光の子である。この光の子に戻る為に内なる光と一体になり、本来の我、光の子に戻る。これが現象界で成すべきことである。病気、不安、悩みは生き方が間違っているというメッセージである。これらに対処するのではなく、自分が自らがバランスを崩していることに気づき、修正して行く。完全の中に居てすべてが完全なのです。
現象に生きるも光の我に戻るも自由意志の選択権が与えられている。この世は俗世、仮の宿、塵世、浮世とも呼ばれているのは魂の修行の仮相界という意味である。
仮相界に生きようとすると、人間は分離感のため、同じ生命体の中で自己保存のために共食いをしてしまう。1人、1人が自らバランスを修正することで、本来の自分に戻ることで、地球の波動も上げることになる。完全なる中に居る我に戻るための現象界。善悪の分離感から絶対バランスの本来の我に戻して行く。これに気づいたものから現象界から離脱し、現象界のバランスを修正することが人類救済、地球環境のバランスを治すことであり、太陽系のバランスを崩さない地球人の現象界での生き方である。


 

2023年12月11日月曜日

原因が光りなら結果も光である


原因が光りなら結果も光である

今、見えているものが現象として顕れているということは現象界の波動に同調しているということになる。本来の我は光である自分が自ら下げてしまったということになる。
これは自分で波動を上げて行かなければならない。自分で下げてしまったものは神様は助けてはくれない。「汝の救いは汝自身なり」である。宗教に入っても自ら波動を上げなければ誰も助けてはくれない。自己責任である。
この波動を上げる手立てはある。現象の中には必ず高バイブレーションの高波動が宿り、現象化させている。
今まで外なる現象に同調させてしまっていたものを内なる高波動に合わせ高バイブレーションの波動に戻すことができる。現象人間には必ず内に高波動の種が蒔かれている。これに油注ぎ、開花させることができる。特別なことをすることではない。自分が高波動の神であることを認めるだけである。これにはお金は必要としないのである。