2024年1月7日日曜日

生命と木の葉


生命と木の葉

木も春になれば芽を出し、夏になれば葉が繁り、秋になれば紅葉し。冬になれば落葉する。
見えるものは変化してしまうが。また来年になると芽を出してくる。生命が見えるものを顕している。生命はえいえんなのである。永遠に死ぬことはないが、見える現象の木の葉は変化して見えなくなる、死ぬのではなく、不変原質の還元するのである。不増不減である。
人間も同様に生命は死なないが、姿、形は質料なので、変化するが無くなることはない。変化するだけで木の葉も人間も質料に戻るだけある。死と云うのは形の変化であり、無くなることはない。
生命は見えないが、見える現象だけが変化しているに過ぎない。生きているのは木の葉ではなく、生命が木。人間が生きているのではなく、生命が生きているのである。
生命は宇宙に見える姿、形が生きていると思っている。生きているのは生命だけが生きている。宇宙には1つなる生命のみが実在している。無限生命である。人間は現象の姿、形が生きていると思っている。現象界は生命が形を止っているだけである。
人間が消え行く現象に意識を向けると幻想である生老病死の四苦に囚われてしまう。その四苦に持て遊ばれてしまう。生きているのは生命であり、姿、形ではないのである。
宇宙は1つなる永遠なる生命体。この永遠なる生命体の中に居りながら、有限なる生き方をしてしまう。現象を認めるとその波動になり、現象の状態で死ぬとまたその波動領域に再生される。霊波動まで上げることができなければ、できるまで再生される。
想念は実現の母であり、永遠なる生命に生きるのか?有限なる現象に生きるのかの選択権は自分が持っている。

 

すべては内から外へ


すべては内から外へ

宇宙は限りなく小さく、限りなく大きい。
すべてミクロの世界である。ミクロが見える現象を顕している。万象万物はミクロの生命が現象化している。すべては内なるものの顕れである。
宇宙はすべて細胞体である。宇宙という1つの細胞体が実在している。永遠なる愛の法則の生命体が存在している。愛の法則、中性が宇宙である。すべては1つである。1つの中に時空間は存在しない。時計を見ても時間に終わりがない。数字を数えても終わりがない。万象万物の根源はすべて原子と電子である。宇宙は無限生命、普遍生命である。すべてのものは1つの根源、原点から始まっている。原天である。空である。
宇宙は原因結果の法則で見えないものが見えるものを顕している。原因は見えない、見えない生命が現象に宿り。見える形を顕している。
見えるものはすべて現象であり、人間も現象である。本来の我は現象を顕している内在している生命が本当の我、無我である。空なる我である。生命である。
 現象の中に必ず原因なる生命が宿り、現象化させている。生命はそれを顕す媒体がなければ顕すことはできない。人間も生命を顕す媒体なのである。



エデンの園は我が内にあり


エデンの園は我が内にあり

宇宙は1つなる生命体であり。完全なる永遠なる愛の法則なる生命体である。宇宙そのものがエデンの園の生命体である。宇宙はすべて完全バランスである。人間は宇宙の塵にて人間の形を造り、息を吹き込まれたと書かれている。
この息が宇宙生命であり。宇宙生命が宇宙の塵にて様々な形態を造り、生命が生きている。宇宙は完全完璧であり、この中で生命が形態に宿り。宇宙生命が生きている。
人間には自由意志が与えられている為、意識を自由に使いことができる。人間はこの自由意志を生命の放射に使わず、自分が生きるために使ってしまった。現象に生きてしまった。
エデンの園からの追放というのは完全なる中に居ながら、外なる有限な現象に生きてしまったことがエデンの園からの追放である。神が生きているのを自分が生きていると錯覚してしまった。
現象は生きてはいない。生命が現象に宿り、生きている。人間は存在しないのである。
永遠なる生命に生きないで変化して止まない有限なるものに生きてしまった。
エデンの園は自分の中にあるのである。天国は我が裡にある。
外なる現象なるものから内なる永遠なる生命に気づき、現象である人間という雑念から離脱させて行く。

自我の低波動から神我の高波動へ


自我の低波動から神我の高波動へ

見えるものはすべて低波動であり、見えないものは高波動である。
肉体は意識によって動かされている。意識は見えない高波動。肉体は高波動のエネルギーによって動かされているのである。
人間は自分で肉体を動かしていると勘違いをしている。実際は意識エネルギーが動かしていることを認めなければならない。
肉体は意識の操り人形であることに。普段の生活でそれを感じ取って行き。自分は存在しないということ理解して行く。これができずに低波動を高波動に上げることはできない。無我の我が我であることに気づいて行く。
宇宙は1つなる生命体であり、様々な形態が存在しているように見えるが。1つなる生命の現象であることを理解して行く。宇宙は完全なるパーフェクトであり、何か不調和がある時は自分がしていることが間違いであることに気づくことで波動を上げて行く。
自然界は作用、反作用の法則が働く。この法則を積極的に使う。ヨットが風に向かい前に進むように。向かい風の奥には必ず反対に流れるエネルギーが流れている。向かい風に向かって突き進むことで光が得られるようになっている。これが法則である。このハードルを上げ、自ら下げたバイブレーションを上げて行く。



実相界と仮相界


実相界と仮相界

実相界は実際にある世界。仮相界は実在しない世界。幻想界。
宇宙は1つなる実在界。生命界である。
すべてのすべてありてあるものの根源である。生命エネルギーである。宇宙にはこれ以外実在するものは存在しない。
地球は天地に分けた天地一体の世界、この中に人類は生かされている。神、1つなる生命によって。地球以外に生物は存在しないと人類は思っているが、宇宙は1つなる生命体であり、見えるものは波動が低い為に現象化しているだけで、見えないから他の惑星には生命体が存在していないと考えるのは浅はかである。人類が太陽系の波動のバランスを壊しているのをバランスを整えて下さっているの他の惑星の方々である。
人類は宇宙生命体、1つなる神の中にいる神なのに、現象の形を自分と思い、人間を演じている。宇宙は「想念は実現の母」であり、想っったことが顕れる世界である。人間という仮相界で、自分でシナリオを描き、自分でそれを演じている。ドラマの世界で生きている。
宇宙は神1元の世界であり、神以外存在しない。現象はすべて神の具現である。現象である。
現象我我ではなく、現象を顕している原因が我であることを理解して行くのが現象界で成さねばならない使命である。 
 

1人、1人は霊太陽なり


1人、1人は霊太陽なり

太陽には休みはない。常に光輝いている。無所得の愛であり、この太陽は我が裡に光輝いている。
この霊太陽のエネルギーによって人間という現象肉体は形態を維持している。この霊太陽が生命であり、神であり、仏である。汝の神は汝の中の中におわします。
宇宙は1つなる生命体であり、分生命として万象万物、人間に宿り、現象化させている。
すべてのすべてありてあるものは神である。1つなる神が多神を顕している。
宇宙には1つなる生命のみが実在している。見えるものはすべて1つなる生命の化身である。
人間は神に似せて造られたと云われている。人間は神そのものであり、人間にだけ自由意志が与えられている、鉱物、植物、動物には自由意志は与えられていない。
この自由意志は生命エネルギーを顕現する為に与えられているものを波動の低い見える現象で使ってしまい、神への約束を破ってしまった。絶対に開けてはならない竜宮からの玉手箱を開けてしまった人類、人類という浦島太郎がいる。善悪の木の実である。この開けてしまった玉手箱を元に戻すことができる。それは現象を見る波動から生命意識へのバイブレーションを上げることである。開けてしまった玉手箱の蓋は自分で閉めなければならない。1人、1人の中に元に戻す、光の種が蒔かれている。







 

原因、結果は同じもの 1つである


原因、結果は同じもの 1つである

造り主と造られたものは同じものである。
原因が神なら結果も神である。原因が神で結果は人間であるということははない。結果現象の中に神が宿っている。内を看れば神、外を見れば人間の形。外は現象であり、現象を顕している内在している神が化身として現象の中に宿り、現象化されている。内から見れば空である。
この現象だけを見て現わしている内在の神を見ないだけである。
原因、結果は1つである。造り主が神で造られたものが人間ということはない。
原因が神、光であれば、結果も神であり光である。顕されている光の陰をあると信じる自我の心が分離感として見てしまう。原因が光りなら、結果も光りなのである。
この自我の心の肉我の心を変性させ、霊肉一体、天地一体の1つなる生命に気づくために仮の宿の現象の幻想の世界に滞在している。すべては1つ。原因と結果は1つであることに気づき、空の我に戻る。現象我の我から実相の我に戻るための場所がこの世なのである。
原因が光りであれば結果も光であり、現象の世界には現われりことはないのである。
人間という低波動の実在しない我を信じる為に、波動を下げ、現象化してしまったことを悔い改め、本来の我に戻り、現象界から解脱して行く。
元の高バイブレーションンに波動を上げて行く、自分で下げた波動は自分で上げなければならない。