木も春になれば芽を出し、夏になれば葉が繁り、秋になれば紅葉し。冬になれば落葉する。
見えるものは変化してしまうが。また来年になると芽を出してくる。生命が見えるものを顕している。生命はえいえんなのである。永遠に死ぬことはないが、見える現象の木の葉は変化して見えなくなる、死ぬのではなく、不変原質の還元するのである。不増不減である。
人間も同様に生命は死なないが、姿、形は質料なので、変化するが無くなることはない。変化するだけで木の葉も人間も質料に戻るだけある。死と云うのは形の変化であり、無くなることはない。
生命は見えないが、見える現象だけが変化しているに過ぎない。生きているのは木の葉ではなく、生命が木。人間が生きているのではなく、生命が生きているのである。
生命は宇宙に見える姿、形が生きていると思っている。生きているのは生命だけが生きている。宇宙には1つなる生命のみが実在している。無限生命である。人間は現象の姿、形が生きていると思っている。現象界は生命が形を止っているだけである。
人間が消え行く現象に意識を向けると幻想である生老病死の四苦に囚われてしまう。その四苦に持て遊ばれてしまう。生きているのは生命であり、姿、形ではないのである。
宇宙は1つなる永遠なる生命体。この永遠なる生命体の中に居りながら、有限なる生き方をしてしまう。現象を認めるとその波動になり、現象の状態で死ぬとまたその波動領域に再生される。霊波動まで上げることができなければ、できるまで再生される。
想念は実現の母であり、永遠なる生命に生きるのか?有限なる現象に生きるのかの選択権は自分が持っている。