すべては1つなる生命の顕われであり、1つとは神であり、仏であり、生命、光である。
1つなる生命の光を細胞を通して外に顕現させるために肉体細胞が現象化されている。
この肉体細胞は内なる光を顕現する為に造られている。この肉体を光る細胞体にすることで顕現させる。光る宮殿、ダイヤモンドの宮殿。初めからダイヤモンドの宮殿なのであるが、この宮殿に1つなる良心だけのものに、外から邪心という心を入れてしまっている。その為、ダイヤモンドの宮殿は外に顕現できないでいる。人間という自我が遮っている。
この自我という邪心を取り除くには光をより強くすることで邪心という影は消えて行く。
内なる光を意識し、光の強さを増して行く。
人間という意識が自我であり、邪心である。このダイヤモンドの宮殿は神の顕現道具であり、人間のものではないのです。人間と思っている肉体も神によって造られた顕現道具なのである。人間と思っているのは神の顕現道具に人間という名前を付けているだけなのである。
我は人間ではなく、神の子であり、神の器なのである。
神に似せて造られた万物の霊長なのである。
肥田式強健術・聖中心道の鍛錬記ブログです。肥田先生は第二次世界大戦後、第三次世界大戦に向けて宇宙倫理の書を書かれている。何故書かれたのか。その意味は?宇宙は1つなる生命体である。1つの生命体の中に争いをは存在はしないことを云われたのだろうか?焼失してなくなりましたが。それを紐解いて行くブログです。
2024年1月25日木曜日
ダイヤモンド宮殿の使い方
神、仏とは何ぞや?
神、仏とは何かを聞いたことがない。宗教というイメージは葬式しか思い浮かばない。お釈迦様は亡骸は焼いてガンジス川に流しなさいと云われていながら、今の仏教は亡骸をお墓を作り、大切に葬る。魂が抜けているカルシュウムを大切にし、お経を唱え、お布施を頂いている。お釈迦さんが云っていることとは違いではないか。
イエス、お釈迦様はお墓を作って祀りなさいとは云っていない。
イエス、お釈迦様は何を云おうとしていたのか?。キリストも釈迦も宇宙の法則を示していたのである。
人間は実在していない。生命の現象である人間に囚われて生きてはならないことを云われている。1人、1人の中に生命、神、仏が宿り、人間という現象を顕している。本来の我は生命である事を云われている。宇宙は生命体であり、宇宙即我とお釈迦様は云われている。釈迦はその事を慈悲という形で話をしている。キリストは愛という形で話されている。
神、仏とは宇宙生命のことなのである。宇宙法則、永遠なる法則、その法則の現象として万象万物が現象化している。人間もである。人間は生命であり、生命が仏であり、人間という現象の中に宿る法灯明、自灯明が仏であり、我なのある。
現象が我ではなく、内なる法灯明、自灯明が我であることを示そうとしたのである。イエスも汝の神は手よりの足よりも近い所にいると。
お釈迦様、イエスは同じことを云われている。このことが理解できずに子羊達は毛をはぎ取られている。赤ずきんちゃんである。宗教家達もこれを知らないで罪を犯している。
私の近くでも葬式に数百万を要求されて檀家をやめた人もいる。幾らで良いですよと云いながら少ないと文句を言う。これがお寺のイメージですね。葬式の時だけ顔を出す。お寺って何だろう。コロナで檀家を抜け出す人が多い。私もお墓は必要のないことが理解できたので処分し、今まで続いた来た宗派からも離れました。
そろそろ葬式仏教も終わりのように感じます。お釈迦さんがこのように言っている、この経典にはこのように書かれているとか?
2024年1月24日水曜日
人類の勘違い
宇宙は1つなる見えない生命体である。永遠なる久遠なる世界である。
この中の久遠の生命の中に人類は生命によって具現されている細胞体である。宇宙は1つなる生命細胞体である。生命細胞体が様々な形態を顕し、生命が息している。
宇宙は高バイブレーションの為に見えない生命体、霊体である。宇宙霊、宇宙は霊である。
無限生命、普遍生命である。
宇宙は高バイブレーションの霊界であり見える世界ではないのである。地上界は波動が低い為に見える形を顕している。顕しているのは見えない高バイブレーションの生命である。
人類はこの見えないものが見えるものを顕していることに気づかず、見えるものだけを信じて分離感を持ってしまった。その為、1つの中で争いを起こし、喧嘩をしている。
生命は1つであり、1つであることが理解できれば争いは起きない。身内で争い、殺し合いをしているのが人類である。醜い争いに気づかない。
宇宙の法則は1つなる無限生命である。この1つなる生命に戻るまで輪廻が繰り返される。
これに気づいたものから波動を上げ、解脱して行くことで、地上界の波動を上げ、人類が自らの波動を上げることで地上界の波動を上げることができる。自分自身の為に生きることが地球環境を良くすることになる。本当の奉仕は自分自身の波動を上げることである。本当のボランティアである。
人類の気づき
人類は文明を発達させて来ているが。この文明の発達は正常な発達ではない。文明が発達すればする程、地球の環境が悪くなる。
人類は宇宙は細胞体であることを理解していない。人間が生きようとすればするほど現象を顕している微生物が殺され。形態を維持する微生物がいなくなる。
人類は自分が生きるためのもっとも必要な地、水、火、風、生命の4原則を犯し、文明を発達させている。この気づきのメッセージが異常気象であり、地震である。最大のメッセージが天変地異である。
宇宙は中性バランスであり、これに逆らうと戻されてしまう。
人間が生きるために草を枯らす除草剤を撒くが撒いた土には武生物が殺されるため、耐力がなくなり。砂のようになってしまう。微生物が土の耐力保っていることに気づかない。
地上界を支える微生物が少なくなり、地上界はバランスを失っている。いつ大きな地震が起きても不思議ではない状態である。すべ人類のエゴが引き起こしてる。
これは天災ではなく、人災である。
人類が宇宙の法則、完全法則を無視し、経済を発達させる結果である。
宇宙は完全バランスであり、このバランスを犯しているのは人類だけなのである。
1人、1人が自分のバランスを取ることで地上界を元のバランスに戻すことができる。
お金はかからない。意識を変えるだけである。
2024年1月22日月曜日
宗教とは何ぞや?
宗教という字は宇宙を示すと書く。
宗教は宇宙の法則を解き明かすという意味である。
それを地上界で示されたのが、釈迦であり、イエスである。
宇宙は1つなる生命体であり、1つなる生命が多神を顕している。宇宙の根源は1つである。原点は1つである。すべてのすべてありてあるものは1つなる生命、神、仏なのある。
宇宙は高バイブレーションの見えない霊界である。生命界、永遠なる久遠常在のとこしえの世界である。
キリスト教とはキリストの教えではなく、キリストとは何かを教えることであり、仏教も仏とは軟化を教えると書く。キリスト、仏が何かを知らなければ教えることはできない。
聖書をバイブルと云う。波動、バイブレーションのことである。仏典、経典も仏を知る為のアドバイザーである。
キリストは神は汝の手よりも足よりの近い所にいると。釈迦も憶念せよと。
キリストも釈迦も生命のことを云われいる。生命は可視の存在ではない。生命は汝の内にあると云われている。それを理解する為の聖書であり、仏書である。
神、仏が汝の内にあるのならお寺、教会が必要なのだろうか?
宇宙は無形無双の霊体である。人間は万物の霊長なのである。すべて霊の現象なのである。
波動が低いために現象化しているだけなのである。水蒸気が水になり、氷のなっている。すべて同じものである。見えるものはすべて波動の現象であり、人間は神に似せて造られており、自由意志がある為に使い道を間違い、本来の目的を忘れ、現象の形の形に惑わされ、仮相界に留まっている。宗教は神の子を神の戻すことが宗教であると思うのだが?
人生相談することではないと思う。仮相界は本当に我に気づく。間違って使ってしまった自由意志を本来の使い方に戻すことで、本宿に戻ることができる。有限から永遠なる我に戻る。
汝の神は汝自身なり、汝の仏は汝の中にあり。これがキリスト、仏陀が云わんとしたことである。人間は見えるものに囚われて見えない本当の我を見失っているだけなのである。
1人、1人の中に神、仏が生命が宿り、人間という現象を顕している。
何故、心が落ち着かないのか?
宇宙には心は1つしかないのである。良心があるだけである。宇宙は心であり。心が1つであれば不安になることはないのである。常に平安である。
この1つの心を分離し、2心、良心、邪心に自分でしてしまう為に心が落ち着かないのである。
宇宙は1つなる心しか存在しないのであるが、外なる現象は実在しない幻想界であり、これをあると思う心が2心を自ら造ってしまう。1つしかない心を自分が2心を造る為に自分で自分を迷わせているだけである。
原因が快であれば、結果も快である。原因が不安であれば結果も不安になる。
外なる現象は諸行無常の変化の自我の世界である。この世界は自分の心が造り出している。
自分の波動が上がればこの現象波動に巻き込まれなくなる。
悩み、不安を取り除こうとしても取り除けない。結果で結果を治すことはできない。これは対処療法である。原因を改めることで、お金もかからず、すぐに変えることができるのである。
宇宙には1つなる良心だけがあるだけである。現象があると思う心、実在しない心、邪念が自分からエネルギーを抜いているのです。エネルギーが抜かれると気の病、病気になってくる。
2024年1月19日金曜日
心清きものは幸いなり
完全なるものは水晶のように透き通っている。
水も汚れたものは透き通っていない。完全とは透き通って見えないものである。
高バイブレーションなるものは細かく見えないが低バイブレーションなるものは荒く粗雑なるが見えるのである。
気遣い、心使いと云うのは目に見えないが肉体を通して顕れてくる。
神とはこの純粋なる水晶体のことである。観自在、無碍自在なる空なる世界、其処には邪心なる心はないのである。見えるものは現象であり、粗雑なのである。良心とは穢れのない心であり、其処には平安があるのみである。
原点はこの空であり、現象として見えるものは粗雑なる低波動なるものが見えているだけである。人間も最初は心清きものであったものが、現象に生きようとする為、欲望が絡み、純真さが無くなってくる。神は純粋なる心である。
これが本来の我であり、神である。心は見えないが光なのである。素直な心が神の全知全能の力、知恵を引きだす。赤子のような心が人間に取って最も大切なことである。自分の心に正直になれるかが人間の資質を決める。