2024年2月15日木曜日

キリスト教 仏教とは


キリスト教 仏教とは

キリスト教も仏教も同じようにキリストが聖書の中でこのように云わている。お釈迦様も経典の中でこのように云われていると宗教家が話される。
キリスト、お釈迦様が云おうとしていることは目に見えない法則を理解させるために例え話を使って話されているのである。
例え話を現象界で教えとして説いてしまった。
仏教とは仏の教えではなく、仏とは何かを教える。キリスト教はキリストとは何かを教えるものである。それを仏教は仏の教えと勘違いし、経典を説いている。
キリスト教もキリストがこのように云われていると聖書を紐解いている。
聖書も仏書もその背後にあるものを示そうとして書かれている。
仏陀もキリストも現象を顕している宇宙法則のことを示そうとしていたのである。
現象はそれを顕す原因がある。原因なき原因。それが永遠なる法則であり。法則通りに生きることで、現象に囚われなく生命に生きることを云われている。
宗教とは宇宙の法則である。生きているのは生命が生きているのであって人間は生命の化身である。



2024年2月13日火曜日

北風と太陽


北風と太陽

コートを脱がそうとする北風と太陽の童話であるが、この童話は現象から見る童話ではないのである。
北風とは自我の心、太陽は良心である。
外なる現象がコートであるが、このコートは自分で身に付けた邪心であり、この邪心を取り除く為に風で吹き飛ばそうとすると余計にコートをしっかりと離さない。脱がすには暖めれば自らコートを脱ぐように自分の邪念は内なる太陽の光を強くすることで、邪念は起きなくなる。中心は太陽であり。意識を中心に集めることで邪念は消えて行く。
邪念は実在しないもので、自分が造る心なのである。
宇宙は1つなる太陽、1つなる心が実在しているだけである。現象は1つなる生命の顕われであり、1つなのである。これを現象があると思う心が邪念、自我の心である。
分離感が造る心が善悪の木の実である。
人類の善悪の心の克服を神は気長に待ち続けている。
善とは神であり、神は人なり、人は神なりである。人類は神の分け御霊なる神そのものなのである。


 

現象とは何か


現象とは何か

宇宙は原因なき原因、無形無双の生命である。
中性エネルギーである。
この1つなる生命が様々な形態を造り、現象化させている。これが宇宙の法則である。
この法則によって様々な形態が生まれ、生命が活動をしている。
人類は神に似せて造られており、自由意志が与えられている。この自由意志は宇宙法則の中で使うべきものを人類は法則違反をして、現象で使ってしまった。
浦島太郎の開けてはならない玉手箱を開けてしまった。
これが人類の罪なのであるが。すべての番所万物はすべて神の被造物である。
被造物の中には必ず神が宿り、形態を維持している。神に戻る切符が隠れているのである。
自分だけが使える神の切符である。この切符は他人が使うことはできない。永遠なる生命の切符である。この切符は自分の中に探さば必ずある。この切符を現象界で探しだし、本来の我に 戻って行く、仮の宿は現象界である。
イエスがこの世で死ぬものは再びまた生まれると。切符を手にするまで。


 

2024年2月12日月曜日

死は現象に生きる為に起きる現象


死は現象に生きる為に起きる現象

現象とは形が顕れると書く。現れたものには必ず顕すものがあるということになる。
宇宙は1つなる無形無双の生命エネルギーであり、姿、形はない。見えない空エネルギーである。
空には現象の生も死もない。
原因世界、すべての現象の生命界は空である。現象は空が現象化しているだけで、姿、形は存在しない。
現象界だけを見れば生老病死があるように見えるが、生老病死は生命によって現象化されているだけで質料が変化しているだけで、現象が生きているのではなく、現象を顕している空が生きているのである。
人間は人間が亡くなると葬式をするが、生命が質料を纏っているだけなのである。
生命は何かの媒体がなければ顕すことができないのです。現象は生命が現象化しているのであって、現象が生きているのではないのである。現象は生命を顕すための衣装にしかすぎないのである。本来の空は不生不滅、不増不減なる永遠なる生命体である。
死なない生命を形だけを見て葬式をしている人間は偽りの世界に生きる仮相の住人である。
すべての根源は生命エネルギー、神、仏である。神様、仏様がいるのではない。空エネルギーが神、仏なのである。見えるものはすべて偶像である。この世界から抜け出すための現象界なのである。




 

生命エネルギーがすべての根源


生命エネルギーがすべての根源

宇宙は1つなる根源エネルギー、生命エネルギー、中性エネルギーによって宇宙が形成されている。
万象万物はこの根源エネルギーによって具現され、現象化され、根源エネルギーが生きているのである。
この1つなる宇宙生命が現象化させている。人間も生命が現象化されたものなのであるが、人間は神に選ばれた特別ものであると錯覚してしまった。哀れである。本当のことが理解できなかった。聖書にも人間は宇宙の塵にて人間の形を造り、息を吹き込まれたと。記されている。
人間は万物の霊長、神に似せて造られたものでありながら、地上界を荒らし回り、自らの住処も壊し続けている。これが万物の霊長がすることなのか?
宇宙は完全バランスであり、災害は人類が地上界をアンバランスにする結果として様々な災害がバランス調整という形で修正される。これを幼稚な人類は人災を天災と呼ぶ。悪いことをして居ながら、罪を天に擦り付ける。これが今の人類の姿である。
現象は宇宙生命によって具現化されている。人間も生命の具現化されたものであり、人間は実在していない。
人間は文明を発達させていると思っているが、これらはすべて神の御業、生命の御業なのである。



 

2024年2月9日金曜日

現象は光の陰


 現象は光の陰

宇宙は1つなる生命のみが実在する。2つは存在しない。現象は存在しない。すべて1つなる生命の現象である。
動植物のは逆念はない。人間にだけ自由意志が与えられている。
この人間に与えられた自由意志を分離感で自分がいると勘違いして使ってしまった。見えるものをあると信じて仮相界で我物顔で地上界を荒らしまわっている。情けない人類である。それだけ幼児期な人類であるということなのであるが。
宇宙は1つなる生命体であり、現象は1つなる生命が顕現する為の人間という媒体を造っているのである。こ゚の顕現道具を自分と錯覚し、使ってしまった。
その為永遠なる生命の世界から見放され、有限なる仮相の世界に留まって居る。
永遠なる生命が有限なる固定観念なる世界から抜け出せないでいる。
本来の我に戻ることができずにいる。
光りの我が陰に我に身を置いてしまった。見えるものはすべて陰であり、陰があると信じて生きている。陰は光があっての陰である。
陰は光がなければ陰は存在しない。見えるものはすべて陰である。
光りに生きれば影は存在しない。見えるものがあるということは陰に生きているということなる。
人類はこの仮相界から脱却しなければならない。人類は1人、1人は神の子なのである。
汝の神は汝自身なり。汝の仏は汝自身なり。なのである。
人類はこれが理解できるまで、再生される。天に戻れば輪廻はない。輪廻は現象界にある現象なのである。陰の我から光の我に変性させる。これが何を差し置いても現象界で成さねばならない大事業である。


自分探しとは


自分探しとは

今いる自分が自分ではないということになる。
では何が自分なのか?
宇宙は1つなる生命体であり、1つの生命体が様々な現象を顕している。
現象だけを見ると様々な姿、形があるように見えるがその顕しているものは1つの生命である。
人間も1つなる生命が形を止って人間という姿、形を顕している。万象万物は1つなる生命の顕われなのである。それでなければ無限生命にはならない。
見えるものがあると信じていたが、本当に自分は現象を顕している無形無双の生命が我であることに気づく。これを現象界で気づくことが自分探しである。
現象界で本当に自分に帰ることができなければ本当の自分に帰ることはできない。
現象界で自分に帰ることができなければできるまで繰り返し、輪廻が繰り返される。昇天するまで。人間という生老病死の実在しない仮相に振り廻されて。生老病死は気づくために用意された教材なのである。この素晴らしい教材を使って昇天して行くのである。自分探しの教材は否定してはいけない。この教材がなければ気づかないのであるから。不完全なる教材は完全なる我に気づくための教材なのである。