2024年3月25日月曜日

人間に生きるは宇宙の法則違反、罪人である


人間に生きるは宇宙の法則違反、罪人である

宇宙は1つなる生命であり、1つなる生命が様々な形態を顕し、1つなる生命が形態を通して生命活動をしている。現象が生きているように見えるが実際に生きているのは見えない生命なのである。
人間は生命の顕現媒体であり、顕現媒体に生きようとすると形態バランスを崩してしまう。顕現媒体に生きることが善悪の木の実を食べるということである。生命に生きることが善なのである。
完全に造られた神の被造物を不調和にさせ、崩壊させてしまう。これは法則違反であり。罪である。人間に生きるとは罪に生きることになる。
宇宙は全知全能の神が顕現しているのであって人間は全知全能の神が顕現媒体として顕れているだけなのである。
人間が居て科学技術を発達させているではないかと云うがすべて神の御業なのである。人間には何の力もないのである。
肉体を通して御業を成しているのは神である。錯覚なのである。
宇宙は完全完璧なる生命であり、神であり、神は学ぶことはないのである。顕すだけなのである。その媒体として神によって人間と云う形態が現象化しているのである。神の全知全能の力、知恵を顕現させる為に造られた顕現道具が現象人間なのである。

 

2024年3月24日日曜日

生命は光り 人間は光りを顕現する媒体


生命は光り 人間は光りを顕現する媒体

宇宙は1つなる生命体、霊光である。宇宙には1つなる霊光のみが実在する。
宇宙には姿、形は実在していない。無形無双の霊光のみが実在している。見えるものはすべて1つなる霊光の現象である。人間は万物の霊長であり、すべては霊光の化身である。
すべてのすべてありとあるものは霊光の化身である。霊光が化身を顕しているのであって見える現象は霊光の顕れである。人間も原因なる霊光の結果現象であり、故に肉体は実在していないため、消えて普遍原質に戻る。宇宙は不変不動の1つなる生命体である。
宇宙の本源本質は霊光であり、生命である。こ゚の生命が原因なき、原因。愛の法則、創造の原理、全知全能の力、知恵である。
人間は光りの顕現させる媒体として生命によって造られた生命の宮である。
仮相人間が現象の肉に生きようとするとバランスを失い、低波動のため、輪廻が繰り返される。生命の実相に戻るまで。
本来の実相は1つなる生命であり、人間だと錯覚して現象に生きると見える低波動意識のため、生老病死の四苦に囚われ、自ら造るサタンに生命エネルギーを抜かれ、肉に死ことになる。肉に死ぬは再び人間に再生される。これが輪廻である。



 

神は人なり 人は神なり


神は人なり 人は神なり

宇宙には1つなる生命のみが実在している。
見えるものは1つなる実在の化身である。
万象万物はすべて現象、人間も現象なのである。
人間がいると思う心が善悪の心を造り出す。宇宙には現象は実在しない。1つなる生命が実在し、現象を顕している。1つなる生命が化身として顕れている。人間は神に似せて造られた。人間は神の顕現道具として神によって造られている。人間と思っているのは神の顕現道具を自分と錯覚しているだけである。人間は仮相であり、実在しない。見えるものはすべて仮相であり、実在していない。消え行く存在である。実在とは永遠であるということである。人間は神によって造られている。神によって造られている現象媒体を人間と誤診していることを悔い改めなければならない。
人間と神がいるのではない。神のみが実在している。宇宙は神一元の世界であり、神と人間がいると思う心、実在しない善悪の心を自ら造り、自らを自縛させている。この二心が輪廻になり、また人間に再生されてしまう。宇宙に実在しているのは神のみである。
原因は神であり、結果も神なのである。神が造り主、造られた現象、人間も神である。
人間は神の顕現媒体として神によって造られている。神の働く顕現道具なのである。
この現象道具を神と一つに霊化し、神の生命エネルギーを顕現させる。そのために神が現象化させている。
すべての見えるものはすべて神の生命エネルギーを顕現する媒体として顕れている。


2024年3月23日土曜日

神、仏が様々な現象を顕している


神、仏が様々な現象を顕している


宇宙は1つなる真理であり、神であり、仏である。1つなる生命は真理であり、実在、実相である。
これが1つなる宇宙の本源本質である。
原因なき、原因、処女解任である。
宇宙は中性なる永遠なる実在の愛の生命体である。 
1つなる生命体が様々な形態を顕し、生命が形態を通して顕れている。
形態があるのではない。生命が形態を通して生命が顕わてているだけなのである。

見えるものがあるのではなく、見えない生命が形態を顕し、生命が生きているのである。現象は生命によって造られた生命の顕現道具である。神の宮である。
人間が死ぬということは実在していない現象であるということである。
実在とは永遠ということである。消えて行くものはすべて仮相であり。実在していない。幻想である。実在が仮相を通して実相なる神が顕れている。我は人間ではなく、神なのである。
宇宙は1つなる神一元の世界である。現象をあると思う心が自らを自縛させている。
1つなる実在なる生命のみが宇宙には実在している。これが神であり、仏である。
神、仏が様々な形態に宿り、神、仏が現象を顕している。八百万の神を顕している。
八百万の神がいるのではない、1つなる神が八百万の神を顕しているのである。
すべてが神ななのである。



人生は自分の描いたシナリオ通り


人生は自分の描いたシナリオ通り

想念は実現の母。自分の描いた想念が現象として顕れている。それ以上、以下でもない。
良いシナリオは良いシナリオが表現される。悪いシナリオは悪いシナリオが表現される。
想ったことが顕れる1つなる大霊界、生命界である。人間は万物の霊長であり、すべてが霊の化身なのである。宇宙の真理である。これを神、仏と云っている。神、仏が存在している訳ではない、生命は見えない為に神、仏と呼んでいるだけである。
神のシナリオなら神が顕れる。本来の我が顕すシナリオは神の想念である。現象界の想念は自我の想念であり、本来の想念ではないのである。人間は神の生命を顕現する為に一時的に神によって現象化している、
人間は神の想念を顕す媒体であり、現象結果の人間が生きる為現象化しているのではない。
人間は現象であり、仮相であり、実在してはいないのである。仮相が想念すると分離感のため争いを起こしてしまう、地球上の争いはこの分離感から起こる。このエネルギーも神のエネルギーであり、神のエネルギーを不完全で使う為、この現象界から抜け出せない。人類は今、神の完全なるエネルギーを不完全な形で使っている。神への反逆を犯している。
実相なる神が生命エネルギーを顕現させる為に仮相なる人間を媒体として造られている。
実相は見えない。見えない生命なる実相を人間という顕現媒体を使い、生命を顕現させようとして道具、神の宮を神によって現象化させている。人間は存在しないのである。
人間が自分で動いているように見えるが内なる生命が人間と云う媒体を使って生命が顕しているのである。
人間この事を知らず、自分で動いていると錯覚し、自縛し、輪廻で再生させられている。
自分が自分の力で動いていると勘違いをしている。人間が動いているのではなく、神が動いているのである。人間は神によって造られた顕現道具であり、人間には何の力も持ち合わせていない。人間は質料であり、受動であり、能動成るものによって動かされている、霊肉一体で生命エネルギーによって肉体は動かされている。
現象は原因によって造られた原因の結果である。結果は原因により、結果は動かされている。
結果は単独で動くことはできない。一体で動くことができるのである。愛の法則によって動くのである。
パソコンも幾ら性能が良くても電源がなければ動けないように、人間も生命エネルギーがなければ動けないのである。生命エネルギーは神であり、仏である。
神、仏が人間媒体を動かしている。宇宙神、宇宙は神であり、神が宇宙の質料を通して顕れているのである。
「人間は宇宙の塵にて人間の形を造り、息を吹き込まれた」宇宙は1つなる息なのである。
宇宙の1つなる息は1つなる生命である。1つなる生命が多神を顕している。宇宙は1つなる生命の顕われ、宇宙は1つなのである。1つの中に争いは存在しない。
人類はこの事が理解できない為、分離感で争いを起こし続けている。



2024年3月22日金曜日

現象の中の生命が我である


現象の中の生命が我である

宇宙生命は中性なる無限大なる生命エネルギーである。力、知恵、創造の原理である。
中性なるが故に想ったことを顕すことができる。
すべての原点(天)は無形無双の生命である。
すべては1つであり、1つの生命の顕われであり、1つなる生命が神である。
今まで神を分離感で外に求めさせられてきたため、本来の我に気づくことができなかった。
この気づきが本来の我に気づき、知ることになる。人間の姿、形は神の顕現道具であり、神の働く宮である。勝手に形を見て人間がいると錯覚し、諸行無常の変化して止まない普遍原質に惑わされてしまっている。本来の我は神であり、神我顕現するための道具が人間なのである。
自分が創り出した迷妄、サタンに憑りつかれている。
我が中に生命が宿り、これに気づき、昇天して行かなければならない。これは中途半端ではできない。有限意識から無限意識に変性させなければならない。
現象界は仮の宿であり、今生で自分は内なる生命、神の種に気づき、生命に同化させ、1体にさせ生命を顕現させる。これが目的なのである。神の自覚とは自分は神であることを知るという意味である。
すべての答えは汝の内にあり。汝の神は汝自身なり、汝の仏は汝自身なりである。
外なる内なる神我との戦いである。外なる誘惑に負けるか、誘惑を振り切れるかである。
この世で富めるものはラクダが針の穴を通るが如しである。





愛のエネルギーがすべてを具現させている


愛のエネルギーがすべてを具現させている

宇宙は1つなる愛のエネルギーによって万象万物が現象化されてい
愛のエネルギーが宇宙の本源本質である。宇宙に実在しているのは愛のエネルギーのみである。
この愛のエネルギーを想念によってどのように使うかは自由意志を持たされている人間に任されている。良くも悪くも自由に使いことができる。
人類はこの愛のエネルギーを正し使わず、神に反逆し、現象の人間がいると思い違いをし、勝手に使っている。その為、本来の目的である神我顕現である使命を忘れ、仮相なる自分の為に使ってしまった、
愛のエネルギーは愛の顕現に使う為に造られた神の宮であり、人間は顕現道具をこれを自分と錯覚し、現現道具に生きてしまった。その為、永遠なる生命から有限なる現象界の生き方に自らの波動を下げてしまった。
本来の生命の生き方に戻すには現象の中に蒔かれている神の種に気づき、心の華を咲かせなければならない。外は人間、内は神である。外なる現象は変化して止まない諸行無常の世界である。この現象を顕している内なる永遠なる原点、原天である無限無相の愛のエネルギーに意識を戻さなければならない。これが現象界でなさねば成らない大事業なのである。
この世の消え行く世界の中で豊かな生活をする為に生まれてきているのではないのである。