想念は実現の母。自分の描いた想念が現象として顕れている。それ以上、以下でもない。
良いシナリオは良いシナリオが表現される。悪いシナリオは悪いシナリオが表現される。
想ったことが顕れる1つなる大霊界、生命界である。人間は万物の霊長であり、すべてが霊の化身なのである。宇宙の真理である。これを神、仏と云っている。神、仏が存在している訳ではない、生命は見えない為に神、仏と呼んでいるだけである。
神のシナリオなら神が顕れる。本来の我が顕すシナリオは神の想念である。現象界の想念は自我の想念であり、本来の想念ではないのである。人間は神の生命を顕現する為に一時的に神によって現象化している、
人間は神の想念を顕す媒体であり、現象結果の人間が生きる為現象化しているのではない。
人間は現象であり、仮相であり、実在してはいないのである。仮相が想念すると分離感のため争いを起こしてしまう、地球上の争いはこの分離感から起こる。このエネルギーも神のエネルギーであり、神のエネルギーを不完全で使う為、この現象界から抜け出せない。人類は今、神の完全なるエネルギーを不完全な形で使っている。神への反逆を犯している。
実相なる神が生命エネルギーを顕現させる為に仮相なる人間を媒体として造られている。
実相は見えない。見えない生命なる実相を人間という顕現媒体を使い、生命を顕現させようとして道具、神の宮を神によって現象化させている。人間は存在しないのである。
人間が自分で動いているように見えるが内なる生命が人間と云う媒体を使って生命が顕しているのである。
人間この事を知らず、自分で動いていると錯覚し、自縛し、輪廻で再生させられている。
自分が自分の力で動いていると勘違いをしている。人間が動いているのではなく、神が動いているのである。人間は神によって造られた顕現道具であり、人間には何の力も持ち合わせていない。人間は質料であり、受動であり、能動成るものによって動かされている、霊肉一体で生命エネルギーによって肉体は動かされている。
現象は原因によって造られた原因の結果である。結果は原因により、結果は動かされている。
結果は単独で動くことはできない。一体で動くことができるのである。愛の法則によって動くのである。
パソコンも幾ら性能が良くても電源がなければ動けないように、人間も生命エネルギーがなければ動けないのである。生命エネルギーは神であり、仏である。
神、仏が人間媒体を動かしている。宇宙神、宇宙は神であり、神が宇宙の質料を通して顕れているのである。
「人間は宇宙の塵にて人間の形を造り、息を吹き込まれた」宇宙は1つなる息なのである。
宇宙の1つなる息は1つなる生命である。1つなる生命が多神を顕している。宇宙は1つなる生命の顕われ、宇宙は1つなのである。1つの中に争いは存在しない。
人類はこの事が理解できない為、分離感で争いを起こし続けている。
肥田式強健術・聖中心道の鍛錬記ブログです。肥田先生は第二次世界大戦後、第三次世界大戦に向けて宇宙倫理の書を書かれている。何故書かれたのか。その意味は?宇宙は1つなる生命体である。1つの生命体の中に争いをは存在はしないことを云われたのだろうか?焼失してなくなりましたが。それを紐解いて行くブログです。