2022年1月20日木曜日

息づかい

息づかい、呼吸操練法

息は自らの心、生息、息の乱れは心の乱れ。
息と心は密接な関係がある。息は見えない。見えないが息を吸わなければ息が止まり、肉体は動かなくなる。息は見えない空である。悟空、息は悟りにつながって行く。
見えない息は心臓の鼓動を通じ感じることができる。息が乱れると心臓の脈拍が乱れる。心が乱れる。肉体を動かしているのはこ゚の息である。息が乱れると肉体を自由に動かすことができなくなる。肉体は息の状態によって変化してしまう。
息を安定して使う為には身体の動き方を知っておく必要がある。呼吸操練法の中に腹胸式呼吸法がある。こ゚の呼吸操練法は腹式呼吸と胸式呼吸を同時に行う呼吸法である。寝て行う為、余分な所に力が入らずバランスが取りやすい。また寝て行うため全身の血液が1分間で循環させることができる。
この腹胸式呼吸の時、胸式呼吸は胸をより大きく広げ、胸郭を広げることが目的になる。胸は大きく開いたままの状態で更に大きく拡張させる。ということは肺で外から酸素を入れて吐き出しているという一般的な呼吸ではなくなる。胸は常に解放状態である。肥田先生は息づかいは横隔膜の大緊張と云われている。酸素を入れているのは肺からではなく、皮膚、内臓、全身から酸素を入れる為に横隔膜を使い、内圧を上げることで全身から酸素を入れているということになる。肺は汚れた血液を綺麗な血液に変える場所であるということになる。
腹胸式呼吸法はそのことを教えてくれている。そのまま鵜吞みにするのではなく、本当かな?と疑って自分で確認をして見て下さい。呼吸という字も吐いて吸うと書く。吸呼とは書かない。また「真人は踵で呼吸をする」と云われているが、息づかいは肥田先生の云われる横隔膜呼吸、横隔膜の大緊張と同じことである。
本来、人間には呼吸法はない。神は人間が作った呼吸法を使わななければ生きられないようにはなっていない。腹胸式呼吸法は別々の呼吸ではなく、一体で動く全身呼吸である。肉体が主ではなく、息が主である。息は全知全能の知恵、力である。
横隔膜は人間の意志では動かない。その為に全身の呼吸筋を使い、横隔膜をコントロールする。これが理解できれば日常生活の息づかいが変化する。肥田式の腰腹同量である。ホントかな?と思われた人は試して見て下さい。





2022年1月18日火曜日

五色沼と人間の肉体

原因と結果の法則(見えるものと見えないもの)
福島に五色沼がある。綺麗な沼である。水の色が変化して美しく見えるが水に色がついているのではない。水に含まれる質料が光により変化している。
人間も光の陰によって映し出された影の現象である。人間という形は光の陰である。肉体は質料であり、エネルギーによって生かされている。人間は細胞体であり、物質ではない。エーテル質料であり、細胞の集合体であり、その見える形を人間と名付けているに過ぎない。人間の姿、形は光の陰であり、実在していない。幻影である。
この幻影に本当の自分が惑わされている。この幻影は諸行無常で常に変化して止まない。これをお釈迦さんは心が造り出す迷妄であることを突き止めた。見えるものに惑わされ、不安、恐怖の生老病死に悩まされる。その原因を突き止めた。人間の肉体は現象であって実在しないことを。見えるものは見えないものの現われであり肉体と心のバランスが生命であり本来の我であることに。中心バランスが我であり、このバランスが崩れることが不安、恐怖を持ち込む。中心バランスで肉体は現象されている。こ゚の使い方を正しく使えば生老病死を持ち込まない。中心バランスを取ることは元の我に戻ることになる。

2022年1月13日木曜日

過去、現在、未来 

宇宙には時空間は存在しない。

 無限宇宙、宇宙には時空間は存在しない。無限とは限りが無いと書く。限りが無いということはその中には時間、空間は存在しないということになる。時間も1日24時間ということに認識していても24時間が過ぎれば時計は時間を刻む。切れることはなく続いている。切れていない。限りなく時間は続く。では時間はあるのか?ということになる。数字も1から数えて限りなく続く。切れているのなら数字があるとわかるが、切れていない。宇宙は切れていないということになる。1つということである。その中に過去、現在、未来は存在するのか?今という時間が続くことである。今の一瞬がある。使える時間は今のi一瞬の時だけである。過去の時間も未来の時間も使うことはできない。今を生きる。明日を生きることはできない。時空間がないということは永遠だということになる。永遠を生きるとは今を生きるということになる。
過去、未来があるということは空間があるということになる。それでは宇宙は永遠ではないということになってしまう。今、今、今。永遠を生きるとは今の一瞬を生きることになる。今の一瞬に生きれば其処には平安があるのみである。迷いも悩みもないということになる。分離感が悩みを持ち込む。今に一心集注するこという中に迷いはない。不安もない。今の一瞬、一瞬を生きることが永遠ということになる。永遠は今の一瞬の中にすべてがある。使えない明日のことを悩んでも明日の時間を使うことはできない。悩む不安が今を生きる時間のエネルギーを低下させている。悩み、不安、ストレスは目に見えない大きなエネルギー損失である。

2022年1月12日水曜日

心身一体、気合鍛練

霊肉一体の鍛練
肥田先生は神の子、神の器と話される。一般的に人間は身体を鍛えて能力を出そうとするが、肉体は質料であり、分子細胞であり、分子細胞は3ケ月の寿命であり、新陳代謝により細胞が入れ替わってしまう。肉体細胞の分子細胞を幾ら鍛えても3ケ月の寿命であり、分子細胞は意識によって左右されてしまう。心が不安になれば不安を肉体が表現してしまう。肉体は心の想いを忠実に表現する道具である。肉体は心、意識と一体として使うことで能力が出るようになっている。
意識と肉体との一体でエネルギー、能力が入ってくる。エネルギーは肉体が造り出すのではなく、自然界の作用、反作用によってエネルギーを引き込む。その為に「伸ばせばバターの如く、縮めば鋼鉄の如く縮む筋肉」、量ではなく、質の筋肉が必要になる。肥田式の最初に出版された心身強健術の冒頭に「気合でもって鍛錬する」と書かれている。意識と肉体を合一させ、鍛錬するということである。故に「必死の気」で鍛錬するということである。一心集注で鍛錬する。心は神であり、気であり、エネルギーである。肉体と心が一つになる時、1つになる時、エネルギーが肉体を通して現れる。エネルギーとは生命のことである。これが宇宙の法則、陰陽の法則、神の法則である。自然界はこの法則を作用、反作用によって息している。気合は神の法則であり、バランスが生命である。人間は宇宙の中性バランス生命の中に存在している。最初からバランス、神なのである。生命そのものが自分であることに気づく。それが気合であり、気合が我である。その生命が人間という形を現象化させている。肥田先生は自分という自我を持っていない。無我である。生命が我であることを知っておられた。故に人間は神の子、神の器と云われているのだと思う。




2022年1月11日火曜日

不老不死の仙薬(2)

 秦の始皇帝は自分の中に不老不不死の仙薬があることに気づかなかった。
肥田先生は「秦の始皇帝は自分の中に不老不不死の仙薬が自分の中にあることに気づかなかった」と云われている。不老不死の仙薬は自分の中心にあることをはっきりと自覚されておれれた。仙薬とは中心力である。
宇宙は中性バランスで永遠の生命を維持している。永遠なる調和バランスである。この中で人間は生かされている。生かされているというより中心力のエネルギーが質料形態を見える形にしているだけで、生きているのは人間ではない。生命が肉体という現象を現わしているのである。人間はこの世を生きようとしているが、この世は仮の宿であり、俗世である。幾らこの世で財をなしても肉体が無くなると貯めた富は持っては行けない。其の事に気づく為に現象界、幻影の世界がある。肥田先生もこの世を塵の世、塵世と呼ぶ。
今、567で人類は騒いでいるが自分でバランスを崩し、それに囚われているだけである。
人間は利害に囚われてしまう為、バランスを戻そうとしない。
このアンバランスが天変地異である。天変地異は来るのではなく、人間、一人一人の心が天変地異を造り出しているのである。完全な中に居るのに敢えて不完全を造り出している人類。また目先の欲に囚われて自爆するのか。一人一人に責任がある。
宇宙は完全バランスであり、不調和は人間がバランスを崩すために起きる現象であり、災害もすべて同じです。それを人間は天災と呼んでいる。気づく為のメッセージなのです。不老不死というのは「宇宙のバランスで生きよ」という肥田先生のメッセージでもあると思います。
中心力というのは陰陽のバランスですべてが成り立っている。この法則を神の法則と呼んでいるだけである。神様が他にいるわけではないのです。この法則、中心力を神の子、神の器と肥田先生はおっしゃっておられる。肥田先生が第2次世界大戦が終わり、これから起きる第3次世界大戦に向けて書かれた「宇宙倫理の書」はすべては1つである。1つの中に争いはない。これが宇宙であり、永遠の生命体である。この中に人類は存在していることに気づく為に書かれていると書であると思っております。肥田先生が編み出した中心力を使えば身体は元気になりますが、一緒に肥田先生の想い受け取って頂ければ幸いです。



2022年1月5日水曜日

ダイヤモンドの宮殿

肉体をダイヤモンドの宮殿 と云われるのは?
肥田先生は新陳代謝に目をつけて肉体細胞を活性化させ肉体を強健体に変化させて行かれた。
肉体細胞は陰陽の調和バランスで細胞を分裂させ、分子細胞を次々に分裂させている。人間は75兆の細胞から成り立っている。分子細胞は3ケ月の寿命と云われ、こ゚の細胞が少なくなるとエネルギーが少なくなる。
肥田式も肉体鍛錬と瞑想はセットです。瞑想後顕微鏡で赤血球を見ると細胞が丸く光っており、小さくなっている。細胞が細かくなるということはエネルギーが高まっているということになる。きゅうりの農薬の使わない細胞はぎっしりと詰まっているが農薬を使った細胞は大きく粗雑になっている。人間も同じである。細胞を大きくしてしまうのはストレス、不安、恐怖である。農薬使った状態と同じになる。中心バランスが崩れることで細胞が消滅してしまう。
細胞はバランスでエネルギーを高めている。
肥田先生の細胞は全身が微細な光の細胞体になっている。肉体が霊化しているのだと思う。霊肉一体と云われるが、肉体は細胞体であり、細胞がエネルギー化すると霊化、エネルギー体になるということで光が、オーラが出てくる。これが肥田先生はダイヤモンドの宮殿と云われているのだろうと思います。
肉体と心を一体化させることで、自分が消え、無我になり、エネルギーそのものになる。エネルギーそのものが知恵であり、エネルギーであることを肥田先生は云われている。肥田先生だけが特別な肉体を持っているのもではない。誰でも肉体という同じ肉体道具を持っている。
肥田先生はそのようにすれば誰でもできることを自分の肉体を使って示してくれている。誰でもダイヤモンドの宮殿を持つことができる。やるか、やらないかだけの問題である。
肥田先生はカヤ棒と云われ、女の子に負ぶわれ、虚弱体質のノイローゼの状態からの出発なのである。

  


2022年1月4日火曜日

人間は宇宙の塵に息を吹き込まれた。

 

人間は宇宙の塵に息を吹き込まれ生きるものになった。
肥田先生はこの世を塵の世「塵世」と書く。宇宙は質料とエネルギーの調和、中性で永遠なる生命体である。フリーエネルギー体であるということである。宇宙は無限大と云われる。無限とは限りが無い。故に1つしかないということである。
万象万物はこの中で1つなる永遠なる生命が現象化させている。生命の現われ、現象である。
人間は万物の霊長と云う言葉を肥田先生も使う。宇宙はすべてが霊であり、永遠なる生命、気の循環が行なわれている。囚われという字は人が枠の中に閉じ込めると書く。見える形をあると思ってしまう所に間違いを起こしてしまう。人という字は「霊止」とも書く。形があるのではなく霊が形を取っているだけなのである。
宇宙の中の小さな見える塵を自分だと思ってしまうと永遠なる宇宙の中に居ながら宇宙の力が使えない。見える形があるのではなく見えないエネルギーが形を造っている。形を見るが故、形に惑わされてしまう。見えるものは本物であれば惑わされることはない。本物ではないから惑わされるということである。偽りの見えるものは諸行無常の変化の中にある為、お釈迦さんが云われている生老病死の四苦の惑わされてしまう。善悪の木の実というのは1つのものを見える形だけの片方に囚われ、見えないもう一方を見落としてしまう為に起きる現象である。
自然界もフリーエネルギーで循環をしている。人間は見えるものだけを見る為、このフリーエネルギーの法則を忘れ、自然界の法則を壊し、自分で自分が住む環境を壊していることにも気づかない。中性バランスに戻そうとする中性エネルギーを天災と呼ぶ。人災だとは思わない。人間は万物の霊長と云われながらこのことに気づかない。
肥田先生は自我では鍛錬をしてはいない。常に無我である。故に大きな力が使うことができたのである。肥田先生から学ぶことは鍛錬方法を通して型が造られた意味を学ばなければならない。人はそれぞれに宇宙の全知全能の力を引き出す井戸を持っている。
外に答えを求めず自分の井戸を掘る。外に答えを求めると見えるものがあると思う為、自己保存のために争いが起きる。人間は自分が一番偉いと思っているが動植物より劣る生き方をしている。人間は自然の法則を壊しながら生きている。
神から与えられた力を使わず、自我で争いを引き起こし、自ら自滅の道をたどっている。
形の見えるもは波動が低い。働いて沢山持とうとしているお金は物を右から左に動かす強力な機械のようなものであり道具である。その中に幸せはない。幸せはバランスだから。バランスというのは只のバランスではない。永遠の生命を得るということである。バランス、中心、中なる心が現象化しているだけなのである。
心はフリーエネルギーであり、永遠に無くならない。中心力、バランスが無ければ人間の形も現象化することはできない。一人一人の人間が気づけばこの地上界をユートピア、永遠なる生命体に変えることができる。文明が発達してもユートピアはできない。文明が発達して幾度となく繰り返されてきた天変地異が待っているだけである。