2022年9月8日木曜日

天真療法と真の健康


 天真療法と真の健康

天の真の療法(天真療法)、天は1つなる生命であり、中性なる生命体である。中性は陰陽のバランスで永遠なる生命エネルギー体である。こ゚の永遠なる生命エネルギーのみが宇宙に存在しているだけである。万象万物は1つなる生命エネルギーによって様々な現象を現わしている。現れているものはすべて宇宙生命の仮相である。仮相はバランスによって現象化されている。こ゚のバランスを崩すことが病気である。真の健康は肉体と心のバランスによって維持されている。
一般的に健康を考える場合、見える部分だけを見てしまうが、実際はこのバランスが肉体の不調和を起こして起きる現象が病気である。心が整えば肉体は自ずと良くなる。心とはエネルギーである。
肉体は現象であり、実際には存在はしていないものである。宇宙にある万象万物は実際にはない現象である。故にこの世を仮の宿、俗世、浮世と呼ばれている。人間は見えない心によって動かされている。肉体は神経によって、エネルギーによって動かざれている。肉体と思っているものは表面的な形を云っているだけで肉体の内は70兆個とも呼ばれる細胞体である。新陳代謝はバランスで行われている。真の健康は心と肉体のバランスである。肥田先生が天真療法で云われた事を忠実に行おうとする人は知識があればある程難しい。素直になれない。真実は1つである事に気づかない。現象界、見える世界だけしかないと思っている人には理解できない。



2022年9月3日土曜日

中心の鉄扉と天の岩戸開き


 中心の鉄扉と天の岩戸開き

中心とは中なる心、天の岩戸の中も光である。
心と光は同じもの。宇宙は1つなる無限の生命体、愛の法則、絶対調和の光の完全なる生命の世界、創造原理の世界。この光の世界を神、仏、天照大神と呼んでいる。人間という自我の心が本当の我である光を外に出さない。見えるものは宇宙の本源本質によって現わされている現象であり、同じものであることに気づかない。人間という自我を捨てた時、本来の神の力、知恵が自由自在に使うことができる。中心力も天照大神を同じ意味である。人間は仮相であり、見える自分をあると思う心が本来の力が使えない状態にしている。人間が居り、神がいる訳ではない。宇宙は1つなる生命体であり、見えるものも見えないものも同じものである。見えるものだけがあるのではない。見えるものは見えないものによって見える象を現わしている。
八百万の神が存在するのではない。1つなる神が八百万の神を現わしている。宇宙は1つなる生命細胞体である。すべて1つの生命体である。
天の岩戸開きの神話も見えないものを知る為の例え話である。聖書も同じである。それをそのまま受け止めると分離感になり、間違いを起こし、偶像化し、此処が本物の岩戸であるということになってしまう。人間は現象を信じて本質の意味が理解できない。すべては1つである。
聖書はバイブルと云われるように宇宙はバイブレーションの世界である。バイブレーションが低いと見える現象になり、高いと見えなくなるだけである。
色心不二、色即是空、空即是色であり、見えるものも見えないものも1つである。見えるものが亡くなったのではなく、見えなくなっただけで変化しただけである。この言葉が理解出来たら人間は死なないということになる。人間の本質は宇宙生命体であり、永遠であると。人間は死なないのだからお墓は必要ないということになる。見えるものはすべて現象であり、現象を現わしている万象万物の本質は永遠である。本来の我に気づく。万象万物を照らす光が天照大神であり、我自身である。仏陀は宇宙即我と云われている。宇宙そのものが天照大神である。見えるもの、見えないものすべてが神である。


2022年9月2日金曜日

人間は万物の霊長である


 人間は万物の霊長である

人間は万物の霊長と云われている。万物はすべて霊であるということである。宇宙もすべて霊であるということになる。宇宙は1つなる生命、霊の世界であり、これが宇宙の本体である。宇宙は見えない高バイブレーションの世界であり、見える万象万物は霊が波動を下げて現象化している状態。1つなる霊が様々な形態を現わし、その中で生命活動をしている。
生命は見えないエネルギーであり、見える質料に宿っている為、見えない生命を見落としてしまっている状態。見えるものは見えない生命によって生かされている。生命が人間という人形(ヒトガタ)を動かしていることを死という形で知らせている。意識が抜ければ肉体は動かなくなることは誰もが知っている。それでも目に見える肉体を自分と思ってしまっている。見えないものと見えるものは1つであるということを日常で言葉に出して使っているのだが。
霊肉一体、表裏一体、天地一体、色心不二、これらの言葉の意味はすべて1つであるという意味である。見えるものは見えないものによって現わされているということである。すべてが霊であるということを日本人は当り前に日常で使っている。
宇宙はすべてが霊1元、見えないものを神、仏と呼んでいる。1つの中に神、仏が別々のいるのではない。1つの宇宙の中に様々なものは存在しない。1つなる生命体、無限生命の中に形あるものは存在しない。見えるものはすべて1つなる見えない生命の現象である。生命が我である。
見えるものは波動が低い為に見える象を現わしている。高波動になれば姿、形には現れない。
高バイブレーションの生命が形態の中に宿っている。
高バイブレーションなる我が見える低波動に合わせてしまう為、形があると思うようになり、 囚われ自らを縛ってしまう。形の偶像をあると思う心が分離感を生み、争いを引き起こす。
この世は本当の我に戻る為にある現象界である。陰の世界である。肉体を現わしているということは波動が低いということを意味する。聖書はバイブルと云われている。高波動に戻る為に書かれた書である。見えないものをたとえ話によって見えない自分に気づく為のものである。
実在しない見えるものをあると信じ、自分で波動を下げてしまったものは自分で上げなければならない。これがカルマである。
低波動を上げることを肉体離脱と云っている。人間も昆虫達と同じように脱皮して行かなければならない。昆虫たちは脱皮するために宗教は持っていない。昆虫も人間も同じである。今、仮相の人間は仮相を自分と思い、争いを起こし、1つなる生命の現象の殺し合いをしている。見える現象を殺しても生命は殺すことはできない。見える象が変化するだけである。
どのようにすれば現象界から争いがなくなるのか?それは1人、1人がこの低波動の世界から抜け出すこと以外にない。抜け出すことで周りの波動が上げることができる。1人、1人が自分の波動を上げることが人類救済である。本来の自分に1人、1人が戻ることである。形の持たない我に戻ることである。空の世界に戻る。1人、1人が自分に戻るこが地の星から光る星に変わる唯一の方法である。

2022年9月1日木曜日

肥田式は本当の我に気づく鍛錬である。


 肥田式は本当の我に気づく鍛錬である。

肥田式は人間の形の中にある中心を通して中なる心、本当の我に気づく鍛錬である。身体の中心を機械的に見つめ中心なるエネルギーが我であることに気づく鍛錬である。自然界は作用、反作用に力が働いている。この反作用のエネルギーを引き込み、肉体を動かして行く。動かしているのは反作用のエネルギーであり、自分が動かしているのではないことに気づいて行く。グライダー、ヨットのように向かい風をエネルギーに変えて行く。
鳥たちも上昇気流を捉えて動いている。自然界は中性に戻そうとするエネルギーを使って動かされている。人間も肉体の裡には意識というエネルギーが内在されている。このエネルギーを肉体を使って引き出して行く。このエネルギーは無限大である。幾ら使っても減らないエネルギーであり、地球上に生息している生物はこの中性エネルギーを使っている。
人間が息しているのもこのエネルギーである。すべての万物はこ゚の1つなる生命エネルギーによって現象化され、生かされている。1つなる生命エネルギーが我であり、すべての万象万物はこのエネルギーによって生かされている。形、現象は現わす器であり、器、形が自分ではなく、こ゚の中性生命エネルギーが本当の我であることに気づいて行く。動かしているものは肉体ではなく、肉体に宿る中性エネルギーである。人間と云う個人は存在は何処にも存在しない。宇宙内すべて1つなる中性なる無限エネルギーであり、この中で万象万物は現象化している。このエネルギーがなければ万象万物は現象化できない。見えているものはすべて現象である。人間も初めから存在はしていない。造られたものである。造られたものは必ず造り主がいる。それが中性生命エネルギーであり、神であり、仏であり、天照大神である。これが本当の我である。造り主が神なら造られたものも神である。神とは中性生命エネルギー、光のことである。神様が別にいる訳ではない。我は神の子であり、神の器であると肥田先生も云われている。


2022年8月29日月曜日

固定観念とは


 固定観念とは

何ぜ固定観念という言葉があるのだろうか?
固定観念を持ってはいけないと誰もが云う。物事を固定して見てはいけないということである。物事は常に変化してしまうものである。見えるものは変化して止まないものであるということである。結果である。見えるものは見えないものによって現わされている。見えるものと見えないものは1つであり、2つで1つである。見えるものだけを見てあると思う心が固定観念であり、分離感である。見えるものは実在しないのである。形であり、形には何の力もない。偶像である。これをあると思う心が固定観念という分離感を持ち、知識で自分は分かったつもりになってしまう。答えを外に求める生き方になってしまう。青い鳥を外に求めるようになってしまう。
固定観念という自我は取れそうで取れない。真剣に自分に向き合わなければ取れない。
全ての答えは自分の裡のあるのであって外にはないのである。
自分の目的意識をはっきり持ち、事に当たることで徐々に固定観念は取れてくる。
思い込みで、やっているつもりで、実際は安易に勝手に形だけをなぞっている。聞く耳を持たない。幾ら言っても自分は正しいと思い込み、つもりで行っている。それに気づかない。本人は自分ではやっていると思っているからそれ以上は言えない。気づくまで待つしかないのである。その内に本質から離れてしまう。
固定観念、思い込み、先入観、この五感の自我から抜け出すには真剣に素直な心で自分と向き合わなければならない。最大の敵はこの固定観念である。すべては1つの法則によって動かされている。固定観念は自我である。本来は自我はなく、無我である。人間は形に人間と云う名前を付けているだけで後付けの名前であって人間という初めから生き物は存在していない。形の名前である。「人間は宇宙の塵にて人間と云う形を造り、息を吹き込まれた」と聖書の書かれている。
宇宙は1つなる無限生命体であり、人間は宇宙細胞体の細胞の一部である。人間が居ると思う心が自縛し、迷いを持ってしまう。無限なる中に有限なる自我は存在しない。万象万物はすべて1つなる生命の結果の現象である。自分は存在しないのだから悩むことも不安もないのである。不安がある人は自我である。生かされていることに気づかず、自分で生きていると思っているものは宇宙生命体のがん細胞である。固定観念は実在しない見えるものをあると思う心が自分を縛ってしまう。



2022年8月26日金曜日

宇宙は1つなる完全なる全知全能の生命体


 宇宙は1つなる完全なる全知全能の生命体

見えるものはすべて宇宙の生命体が宿り、永遠なる生命体を現象化させている。
生命体が見える現象ごとにあるのではない。あるとすれば宇宙は成り立たない。人間の細胞体もこれほど精妙に造られている。人間が作ったのではない。人間はこれを解明しているだけでいるにも関わらず、自分が作ったと思い違いをしている。
宇宙は1つなる生命体であり、無限の生命エネルギーを現わす為にそれぞれの形態を造って生命活動をしている。人間は1つなる生命を現わす器、道具に過ぎない。
宇宙は1つなる完全なる生命体であり、中性の生命体である。
人間は宇宙から見ると見えない塵のようなもので、存在すらもわからないくらい、微細な細胞体である。宇宙は1つの細胞体であり、宇宙全体の中に見えない細胞である。人間の細胞も宇宙と1つで生命活動をしている。人間細胞は宇宙の法則で動かされている。
現象面で生きる人類は見える片側で生きるため、バランスを崩す。1つとして生きれば永遠なる生命で生きることができるものをアンバランスで見えるものだけに生きる為にバランスを崩す。文明が発達するとアンバランスがバランスを取ろうとして天変地異で元にもどざれてしまうのである。宇宙は完全バランスであり、永遠なる生命であり、その中に存在しているものは永遠なはずである。見える現象は変化して止まないが見えるものがなくなることではなく、変化しているだけに過ぎない。人間はこの現象に生きてしまう為に形がなくなることを死と呼び疑いもなく、仮相の現象に生きてしまっている。宇宙は1つなる無限生命であり、現象に生きるから生老病死の四苦に悩まされてしまう。1つのものを分離させる為にバランスを自ら崩し現象の肉体に生きてしまう。バランスが生命であることを忘れている。中性が生命である。
昆虫達のように青虫から蝶に脱皮しなければならない。この世はその為の仮の宿、浮世である。肉体の我から中性の我の本宿に戻る為の現象界である。


2022年8月24日水曜日

人間は自分を持つと能力が出ない何ぜ?


 人間は自分を持つと能力が出ない何ぜ?

一心不乱、一所懸命、必死の覚悟、背水の陣、すべて自分を捨てて無我の状態になる時、裡から力が湧き上がってくる。
宇宙は1つな生命体である。全体で1つである。全体の中の1つの細胞が全体と分離して自分は自分で動く時、全体の力が使えない。自分には知恵も力もない。全体の中で生かされている存在である。1つになるということは全てが1つになるということである。
会社でも社会全体の1部であると1つの会社が意識するとお客と作り手が1つになれる。邪な考え方で会社が1つになっても全体が1つにならなければ、会社は社会の波に持て遊ばれてしまう。
この世は1つなる生命の現象界、仮の宿である。現象は存在しない。存在しない中で生きようとする為、分離感を引き起こす。其処に争いが生じる。現象は仮相であり力はない。本来は何も学ばなくても良いのである。すべて完全なる中にいるのである。宇宙は1つなる完全なる無限生命体、完全なる生命エネルギーを放射させる為に人間と云う現象の器が現れている。
この神の道具を自分と勘違いをするためにこの現象界から抜け出すことができない。
キリストが云われる「現象、肉に生きるは死」であると云われている。
ないものをあると思う自我の心が自分を小さな消え行くものの中に縛ってしまっている。
宇宙の1つなる生命を小さな有限なる中に自ら閉じ込めてしまっている。1つなる宇宙生命を神、仏陀、天照大神と名付けている。1つしかないのに色々な神がいる訳はない。
色々な呼び方があるのである。部分的な見方しかできない為、そこに自分が一番正しいと争いを起こしている。宇宙は1つなる生命体であることが理解できれば仮相の中で争いはしなくても良い。仮相を自分と思ってしまうと解脱、昇天は波動が低い為、できなくなる。
現象界の低い波動から肉体の裡に宿る高波動に上げて行く。これが現象界での成すべきことである。肥田先生も「中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは 米を抱いて餓死するが如し」と云われている。生きていても意味がないということを云われている。自分は存在しない。中心、中なる心が我である。これに気づく鍛錬、自我を取る鍛錬が肥田式であると思っている。
肉体鍛錬がいけないと云っているのではない。中心力が身に付けば自ずと健康にはなる。それぞれの考え方で行なえば良いと思う。肥田式が万芸の泉と云われるのはこの中心力にある。