2022年9月10日土曜日

本来の我は見える我でなく、内なる見えない我である。


 本来の我は見える我でなく、内なる見えない我である。

肉体は意識によって動かして行く。想念によって肉体を動かして行く。肉体は良いことも悪いことも素直に逆らわず現わしてくれる。心が楽しいと思えば楽しい表現をしてくれる。人間の想い通りに肉体は動く。肉体を動かしているのは自分の心である。肉体は心の操り人形である。
本来の我は肉体ではなく、内なる生命であるという自覚を持って肉体を離脱させて行く。本来の我に戻って行く。本来の我は姿、形ではないことをこの現象界で理解して行く。
見えるもの、見えないものすべて1つなる生命の現われであることを理解して行く。
本来の我は見えるものではなく、見えるものを現わしている見えない我である生命と1体になり、そのものになって行く。宇宙生命体そのものになって行く。人間という仮相に囚われてしまうと肉体離脱ができなくなる。また人間に生まれてくる。




2022年9月9日金曜日

本来の我は観自在、無碍自在


本来の我は観自在、無碍自在

 宇宙は1つなる中性の生命体。見えない生命体。この生命体の中に万象万物は生命の現象として現れている。すべては1つなる生命が現わしているだけに過ぎない。人間には自由意志が与えられ、現象、人間が実在していると思うことも仮相であると思うことも自由である。何故、現象をあると思っては行けないのかというと1つなる生命は全知全能の力、知恵であるものを小さな小我の人間があると思ってしまうと宇宙の力が使えなくなってしまう。井の中の蛙になり小さな形の枠に囚われ、本来の自分の力が使えなくなってしまう。宇宙は何の制限もない。観自在、無碍自在の世界である。
人間が無我の境地になると力が出るのは人間という小さな枠を取り払うことで宇宙と1つになることで宇宙の力が使える。これが本来の我だからである。宇宙は無限生命体である。無限生命の中に有限なる人間は存在しない。見えるものは1つなる生命の現象であることが理解することで宇宙の力が使える。宇宙力が我である。
人間という姿、形は全知全能の力、知恵を現す器であり、人間という存在はないということになる。本来の我は形は持たない。無形無相の宇宙生命体である。人間と云う見える象に囚われてしまうと本来の我を現すことができなくなる。今まで人類は人間という幻想から抜け出せないでいる。
本来の我は観自在、無碍自在なる自由なる宇宙の生命が我であること気づく為の現象界である。本来の我は姿、形を持たない我である。空である。そのものに1体になって行く。これを如何に実感して行くかにかかっている。

2022年9月8日木曜日

天真療法と真の健康


 天真療法と真の健康

天の真の療法(天真療法)、天は1つなる生命であり、中性なる生命体である。中性は陰陽のバランスで永遠なる生命エネルギー体である。こ゚の永遠なる生命エネルギーのみが宇宙に存在しているだけである。万象万物は1つなる生命エネルギーによって様々な現象を現わしている。現れているものはすべて宇宙生命の仮相である。仮相はバランスによって現象化されている。こ゚のバランスを崩すことが病気である。真の健康は肉体と心のバランスによって維持されている。
一般的に健康を考える場合、見える部分だけを見てしまうが、実際はこのバランスが肉体の不調和を起こして起きる現象が病気である。心が整えば肉体は自ずと良くなる。心とはエネルギーである。
肉体は現象であり、実際には存在はしていないものである。宇宙にある万象万物は実際にはない現象である。故にこの世を仮の宿、俗世、浮世と呼ばれている。人間は見えない心によって動かされている。肉体は神経によって、エネルギーによって動かざれている。肉体と思っているものは表面的な形を云っているだけで肉体の内は70兆個とも呼ばれる細胞体である。新陳代謝はバランスで行われている。真の健康は心と肉体のバランスである。肥田先生が天真療法で云われた事を忠実に行おうとする人は知識があればある程難しい。素直になれない。真実は1つである事に気づかない。現象界、見える世界だけしかないと思っている人には理解できない。



2022年9月3日土曜日

中心の鉄扉と天の岩戸開き


 中心の鉄扉と天の岩戸開き

中心とは中なる心、天の岩戸の中も光である。
心と光は同じもの。宇宙は1つなる無限の生命体、愛の法則、絶対調和の光の完全なる生命の世界、創造原理の世界。この光の世界を神、仏、天照大神と呼んでいる。人間という自我の心が本当の我である光を外に出さない。見えるものは宇宙の本源本質によって現わされている現象であり、同じものであることに気づかない。人間という自我を捨てた時、本来の神の力、知恵が自由自在に使うことができる。中心力も天照大神を同じ意味である。人間は仮相であり、見える自分をあると思う心が本来の力が使えない状態にしている。人間が居り、神がいる訳ではない。宇宙は1つなる生命体であり、見えるものも見えないものも同じものである。見えるものだけがあるのではない。見えるものは見えないものによって見える象を現わしている。
八百万の神が存在するのではない。1つなる神が八百万の神を現わしている。宇宙は1つなる生命細胞体である。すべて1つの生命体である。
天の岩戸開きの神話も見えないものを知る為の例え話である。聖書も同じである。それをそのまま受け止めると分離感になり、間違いを起こし、偶像化し、此処が本物の岩戸であるということになってしまう。人間は現象を信じて本質の意味が理解できない。すべては1つである。
聖書はバイブルと云われるように宇宙はバイブレーションの世界である。バイブレーションが低いと見える現象になり、高いと見えなくなるだけである。
色心不二、色即是空、空即是色であり、見えるものも見えないものも1つである。見えるものが亡くなったのではなく、見えなくなっただけで変化しただけである。この言葉が理解出来たら人間は死なないということになる。人間の本質は宇宙生命体であり、永遠であると。人間は死なないのだからお墓は必要ないということになる。見えるものはすべて現象であり、現象を現わしている万象万物の本質は永遠である。本来の我に気づく。万象万物を照らす光が天照大神であり、我自身である。仏陀は宇宙即我と云われている。宇宙そのものが天照大神である。見えるもの、見えないものすべてが神である。


2022年9月2日金曜日

人間は万物の霊長である


 人間は万物の霊長である

人間は万物の霊長と云われている。万物はすべて霊であるということである。宇宙もすべて霊であるということになる。宇宙は1つなる生命、霊の世界であり、これが宇宙の本体である。宇宙は見えない高バイブレーションの世界であり、見える万象万物は霊が波動を下げて現象化している状態。1つなる霊が様々な形態を現わし、その中で生命活動をしている。
生命は見えないエネルギーであり、見える質料に宿っている為、見えない生命を見落としてしまっている状態。見えるものは見えない生命によって生かされている。生命が人間という人形(ヒトガタ)を動かしていることを死という形で知らせている。意識が抜ければ肉体は動かなくなることは誰もが知っている。それでも目に見える肉体を自分と思ってしまっている。見えないものと見えるものは1つであるということを日常で言葉に出して使っているのだが。
霊肉一体、表裏一体、天地一体、色心不二、これらの言葉の意味はすべて1つであるという意味である。見えるものは見えないものによって現わされているということである。すべてが霊であるということを日本人は当り前に日常で使っている。
宇宙はすべてが霊1元、見えないものを神、仏と呼んでいる。1つの中に神、仏が別々のいるのではない。1つの宇宙の中に様々なものは存在しない。1つなる生命体、無限生命の中に形あるものは存在しない。見えるものはすべて1つなる見えない生命の現象である。生命が我である。
見えるものは波動が低い為に見える象を現わしている。高波動になれば姿、形には現れない。
高バイブレーションの生命が形態の中に宿っている。
高バイブレーションなる我が見える低波動に合わせてしまう為、形があると思うようになり、 囚われ自らを縛ってしまう。形の偶像をあると思う心が分離感を生み、争いを引き起こす。
この世は本当の我に戻る為にある現象界である。陰の世界である。肉体を現わしているということは波動が低いということを意味する。聖書はバイブルと云われている。高波動に戻る為に書かれた書である。見えないものをたとえ話によって見えない自分に気づく為のものである。
実在しない見えるものをあると信じ、自分で波動を下げてしまったものは自分で上げなければならない。これがカルマである。
低波動を上げることを肉体離脱と云っている。人間も昆虫達と同じように脱皮して行かなければならない。昆虫たちは脱皮するために宗教は持っていない。昆虫も人間も同じである。今、仮相の人間は仮相を自分と思い、争いを起こし、1つなる生命の現象の殺し合いをしている。見える現象を殺しても生命は殺すことはできない。見える象が変化するだけである。
どのようにすれば現象界から争いがなくなるのか?それは1人、1人がこの低波動の世界から抜け出すこと以外にない。抜け出すことで周りの波動が上げることができる。1人、1人が自分の波動を上げることが人類救済である。本来の自分に1人、1人が戻ることである。形の持たない我に戻ることである。空の世界に戻る。1人、1人が自分に戻るこが地の星から光る星に変わる唯一の方法である。

2022年9月1日木曜日

肥田式は本当の我に気づく鍛錬である。


 肥田式は本当の我に気づく鍛錬である。

肥田式は人間の形の中にある中心を通して中なる心、本当の我に気づく鍛錬である。身体の中心を機械的に見つめ中心なるエネルギーが我であることに気づく鍛錬である。自然界は作用、反作用に力が働いている。この反作用のエネルギーを引き込み、肉体を動かして行く。動かしているのは反作用のエネルギーであり、自分が動かしているのではないことに気づいて行く。グライダー、ヨットのように向かい風をエネルギーに変えて行く。
鳥たちも上昇気流を捉えて動いている。自然界は中性に戻そうとするエネルギーを使って動かされている。人間も肉体の裡には意識というエネルギーが内在されている。このエネルギーを肉体を使って引き出して行く。このエネルギーは無限大である。幾ら使っても減らないエネルギーであり、地球上に生息している生物はこの中性エネルギーを使っている。
人間が息しているのもこのエネルギーである。すべての万物はこ゚の1つなる生命エネルギーによって現象化され、生かされている。1つなる生命エネルギーが我であり、すべての万象万物はこのエネルギーによって生かされている。形、現象は現わす器であり、器、形が自分ではなく、こ゚の中性生命エネルギーが本当の我であることに気づいて行く。動かしているものは肉体ではなく、肉体に宿る中性エネルギーである。人間と云う個人は存在は何処にも存在しない。宇宙内すべて1つなる中性なる無限エネルギーであり、この中で万象万物は現象化している。このエネルギーがなければ万象万物は現象化できない。見えているものはすべて現象である。人間も初めから存在はしていない。造られたものである。造られたものは必ず造り主がいる。それが中性生命エネルギーであり、神であり、仏であり、天照大神である。これが本当の我である。造り主が神なら造られたものも神である。神とは中性生命エネルギー、光のことである。神様が別にいる訳ではない。我は神の子であり、神の器であると肥田先生も云われている。


2022年8月29日月曜日

固定観念とは


 固定観念とは

何ぜ固定観念という言葉があるのだろうか?
固定観念を持ってはいけないと誰もが云う。物事を固定して見てはいけないということである。物事は常に変化してしまうものである。見えるものは変化して止まないものであるということである。結果である。見えるものは見えないものによって現わされている。見えるものと見えないものは1つであり、2つで1つである。見えるものだけを見てあると思う心が固定観念であり、分離感である。見えるものは実在しないのである。形であり、形には何の力もない。偶像である。これをあると思う心が固定観念という分離感を持ち、知識で自分は分かったつもりになってしまう。答えを外に求める生き方になってしまう。青い鳥を外に求めるようになってしまう。
固定観念という自我は取れそうで取れない。真剣に自分に向き合わなければ取れない。
全ての答えは自分の裡のあるのであって外にはないのである。
自分の目的意識をはっきり持ち、事に当たることで徐々に固定観念は取れてくる。
思い込みで、やっているつもりで、実際は安易に勝手に形だけをなぞっている。聞く耳を持たない。幾ら言っても自分は正しいと思い込み、つもりで行っている。それに気づかない。本人は自分ではやっていると思っているからそれ以上は言えない。気づくまで待つしかないのである。その内に本質から離れてしまう。
固定観念、思い込み、先入観、この五感の自我から抜け出すには真剣に素直な心で自分と向き合わなければならない。最大の敵はこの固定観念である。すべては1つの法則によって動かされている。固定観念は自我である。本来は自我はなく、無我である。人間は形に人間と云う名前を付けているだけで後付けの名前であって人間という初めから生き物は存在していない。形の名前である。「人間は宇宙の塵にて人間と云う形を造り、息を吹き込まれた」と聖書の書かれている。
宇宙は1つなる無限生命体であり、人間は宇宙細胞体の細胞の一部である。人間が居ると思う心が自縛し、迷いを持ってしまう。無限なる中に有限なる自我は存在しない。万象万物はすべて1つなる生命の結果の現象である。自分は存在しないのだから悩むことも不安もないのである。不安がある人は自我である。生かされていることに気づかず、自分で生きていると思っているものは宇宙生命体のがん細胞である。固定観念は実在しない見えるものをあると思う心が自分を縛ってしまう。