2022年9月18日日曜日

筑波山の植物たちと生命


 筑波山の植物たちと生命

筑波山は植物の垂直分布が見られる。3つの森林帯に分かれている。その為、色々な植物が生まれている。ホシザキユキノシタも筑波山の固有種となっている。つくば市の花でもある。ツクバウグイスカズラ、筑波山で発見された植物は多い。貴重な植物のが育っている。最初から固有種のホシザキユキノシタがあったわけではない。後から名前をつけたのである。
人間は宇宙の塵に人間の形を造り、息を吹き込まれた。と聖書に書かれている。人間も後から人間と名前を付けただけの話である。宇宙の生命が造った形に名前をつけている。人間の先祖は人間ではなく、生命である。神である。人間は生命の子である。人間の羊水で造られるため、人間が造ってると勘違いをしているだけである。人間と思っているのは形を人間と云っているだけで人間の中身は細胞の集合体である。宇宙は1つなる細胞体であり、様々なバイブレーションの違いによって様々な形態を現わしているだけである。
現われた形はすべて細胞の集合体の形である。宇宙細胞体の中の小さな細胞体、これを人間と呼んでいる。人間は存在していない。細胞の形を人間と呼んでいる。見えるものは細胞体の集合体でであり、細胞には寿命があり、消えて行く現象である。細胞は新陳代謝により形態を維持している。新陳代謝はバランスによって行われている。人間は人間がいると思っている為、不具合を直そうとするが、宇宙バランスで形態を維持していることに気づかない。キリストは生命に生きよと云われていることに人類は気づかない。
肥田先生も「天真療法」を作られたが、使う人がバランスによって形作られている事に気づかない為に使えない。治癒力とはバランスの事である。中心力である。中心生命力である。
生命は陰陽の法則であり、法則の結果が人間という現象である。人間は菌体バラ んスで形態を保っている。1つの生命体を善玉菌、悪玉菌と勝手に分けて悪玉菌を殺している。善玉菌、悪玉菌は2つで1つである。すべてバランスである。完全なる宇宙バランスを崩して自爆しているのは外ならぬ人間なのである。人間は農薬で土を汚し、水を汚し、空気を汚し、自分が生きる為に必要なものを壊している。大人が自分の欲の為に子供達が生きる環境を奪ってしまっている。肥田先生も云われている「天寵無限」は宇宙は永遠なる生命体であるという事である。人間はその中に生まれ、現象として無限なる生命エネルギーを受けて流す道具、神の器である事を云われている。肉体が宇宙の無限大のエネルギーを使うのではない。無限大のエネルギーを肉体という媒体を使って受けて流す為にある。その為には身体の中心定めなければならない。
肉体の鍛錬ではない。無限なる宇宙に消えゆく存在の人間は存在しない。あるのは宇宙生命体が人間という形を現象化しているだけである。人間は万物の霊長であり、宇宙霊である。




2022年9月17日土曜日

色心不二と墓じまい。


色心不二と墓じまい。

 色即是空、空即是色、色心不二。この言葉は誰でも知っている言葉であるが、色は空であり、空は色である、色と空は1つであるという意味であるが、見えるものと見えないものは同じもの。見えないのが見えるものを現わしている。宇宙は1つなる生命体である。1つなる見えない生命が八百万のものを現わしている。宇宙は1つなる無限生命体である。無限の中に死は存在しない。見えるものの状態が変化するだけである。人間が死ぬということが本当なら宇宙は成り立たない。無限なる中に有限は存在しない。
宇宙は見えない霊界である。人間は万物の霊長と云われ、すべて霊である。見えるもの、見えないものすべて霊である。宇宙の1つなる霊のことを神、仏、天照大神と呼んでいる。
宇宙の根源のことである。この霊が様々なバイブレーションの中で様々な形態をつくり、生命活動をしている。人間は形態の変化を死と呼んでお墓を作り、亡骸を大切にしている。人間は見えない生命によって生かされている存在であり、色心不二ということは見えない生命と見える形に宿る生命は同じものであり、1つであるということであり、形が変化しているだけである。生命は死なないということになる。宇宙に生命は1つであり、宇宙が死ぬことはない。見えるものは見えないものの現われである。死なないのだからお墓は必要ないのではないか。お寺も必要がないではないか。このことが理解できたので、宗派から離れ、墓じまいをしてしまいました。宗教という字は宇宙の教えと書く。真理は1つである。様々な宗教の根源は1つでなければまちがいであるということになる。2つあるといことはどちらかが間違っているということになる。宇宙真理は1つである。1つなる神が多神を造る。八百万の神を現わしているだけに過ぎない。2つあると分離感の為に争いが起きる。争いが起きるということは間違っているということに気づかなければならない。1つなる宇宙には争いはない。


2022年9月16日金曜日

天国は意識次第


 天国は意識次第

「想念は実現の母」何故この言葉があるのだろうか?
意識次第で天国も地獄もあるということになる。この世は見える世界、見える世界は見えない世界が現わしている。想いがすべてを現わしている。想いは誰でも思うことはできる。これをどのように使うかである。「想ったことが現われる世界」
想うことは誰でもできるではないか?その想い方で変ってしまう世界がこの現象界である。
良いものを思えば良いものが顕れる。悪いものを想えば悪いものが顕れる世界、これが霊界である。宇宙である。今、人類は人間と云うものに囚われているため、争いの世界から抜け出せない。宇宙は意識の世界である。物質の世界ではないのである。意識がすべての本源、本質の原点の世界。これが本当の我の世界。天国の世界。天国は汝の内のあり。波動を上げることが天国の世界に入る道である。波動を上げるという事は物質意識から霊意識に変えて行く事である。宇宙は最初から天国であり、霊界である。21世紀は全ての宗教をなくすことで、本来のものが見えてくる。企業でも創始者とそれを引き継ぐ2代目は違ってしまう。2代目はそれを守ろうとするため、間違いを起こす。本質を伝えることができなくなる。
宗教家も自分がキリスト、ブッタになれば良いではないか。原点は1つなのだから。
宇宙は無限生命であり、1つなる生命体である。2つあるとそれはどちらかが間違いである。
宗教と云う字は宇宙の教えと書く。宇宙は1つなる生命体である。この宇宙法則に反するものは生き残れなくなると思う。

2022年9月13日火曜日

神は永遠なる法則なり


 神は永遠なる法則なり

宇宙は1つなる生命体であり、1つなる生命体は中性なる生命体なるが故、永遠なる生命体である。中性とは陰と陽のバランスによって造られ、絶対調和によって生命が実在している。こ゚の法則によって様々な形態が生まれ、その中に人間と名付けた生命体が現象化されている。人間はこの現象を自分と勘違いをしているだけに過ぎない。1つなる生命体は波動の世界であり、見えるものに囚われ生きているのが人間という仮相の自分になる。
神様が別にいて神様に従って生きるのではない。神という法則が人間と云う姿、形を現わしている。現われているものも法則によって現象化している。神は拝む存在ではなく、法則によって現象化されたものを如何に使って法則通りに生きるかである。法則通りの生きることで本源、本質の原点、神に戻ることができる。地球の波動が上がれば地球という地の星が光る星に変えることができる。地上ユートピアである。今も天国であるが、意識が波動の領域のため天国には入れない。神は永遠なる法則である。

2022年9月11日日曜日

我は意識なり


 我は意識なり

宇宙は1つなる見えない無形無相の世界であり、何も見えない世界である。人間の現象として肉体があるように見えるがそれを動かしているのは見えない意識が動かしている。意識は見えない。心も見えない。気遣いも見えない。人間が死ぬ時、意識がないと云う。見えるものは見えないものによって動かされている。見えるものは見えないものによって生かされているということは見えるものは実在しないということになる。
全ての万象万物は見えないものによって動かされているということになる。人間には自由意志があるため、見えるものをあると思ってしまう。見えるものはなせ現象化しているのか?を見極める必要がある。すべて見えない意識の現われである。生命の現われである。
見えるものは実在していない。結果として現れている。人間も結果である。結果に生きると宇宙の法則に反する生き方になるため、永遠なる生命が有限なる生き方になってしまう。宇宙には有限はないため、有限なる現象の低波動を上げ、永遠なる高波動に上げなければならない。
人間という低波動では生命循環ができないのである。宇宙のバランスを崩すだけである。
今、仮相の人間に生きようとするため、分離感のため、争いを引き起こしている。同じ生命体の中で自分で自分を殺している。
1人、1人が意識波動を上げ、この低波動領域から抜け出すことで地上ユートピアを造ることができる。宇宙は霊界であり、物質界ではない。物質で地上天国はできない。天とは空の世界であり、天地一体にすることで可能になる。天地一体にするには意識で行わなければならない。


2022年9月10日土曜日

本来の我は見える我でなく、内なる見えない我である。


 本来の我は見える我でなく、内なる見えない我である。

肉体は意識によって動かして行く。想念によって肉体を動かして行く。肉体は良いことも悪いことも素直に逆らわず現わしてくれる。心が楽しいと思えば楽しい表現をしてくれる。人間の想い通りに肉体は動く。肉体を動かしているのは自分の心である。肉体は心の操り人形である。
本来の我は肉体ではなく、内なる生命であるという自覚を持って肉体を離脱させて行く。本来の我に戻って行く。本来の我は姿、形ではないことをこの現象界で理解して行く。
見えるもの、見えないものすべて1つなる生命の現われであることを理解して行く。
本来の我は見えるものではなく、見えるものを現わしている見えない我である生命と1体になり、そのものになって行く。宇宙生命体そのものになって行く。人間という仮相に囚われてしまうと肉体離脱ができなくなる。また人間に生まれてくる。




2022年9月9日金曜日

本来の我は観自在、無碍自在


本来の我は観自在、無碍自在

 宇宙は1つなる中性の生命体。見えない生命体。この生命体の中に万象万物は生命の現象として現れている。すべては1つなる生命が現わしているだけに過ぎない。人間には自由意志が与えられ、現象、人間が実在していると思うことも仮相であると思うことも自由である。何故、現象をあると思っては行けないのかというと1つなる生命は全知全能の力、知恵であるものを小さな小我の人間があると思ってしまうと宇宙の力が使えなくなってしまう。井の中の蛙になり小さな形の枠に囚われ、本来の自分の力が使えなくなってしまう。宇宙は何の制限もない。観自在、無碍自在の世界である。
人間が無我の境地になると力が出るのは人間という小さな枠を取り払うことで宇宙と1つになることで宇宙の力が使える。これが本来の我だからである。宇宙は無限生命体である。無限生命の中に有限なる人間は存在しない。見えるものは1つなる生命の現象であることが理解することで宇宙の力が使える。宇宙力が我である。
人間という姿、形は全知全能の力、知恵を現す器であり、人間という存在はないということになる。本来の我は形は持たない。無形無相の宇宙生命体である。人間と云う見える象に囚われてしまうと本来の我を現すことができなくなる。今まで人類は人間という幻想から抜け出せないでいる。
本来の我は観自在、無碍自在なる自由なる宇宙の生命が我であること気づく為の現象界である。本来の我は姿、形を持たない我である。空である。そのものに1体になって行く。これを如何に実感して行くかにかかっている。