2022年3月26日土曜日

何ぜ肥田先生はこの世を「塵の世」と云われるのか?

この世は何ぜ「塵の世」なのか? 

肥田先生は「天寵無限」という言葉を使われる。無限なる生命エネルギーが肉体を通して使うことができるという解釈が一般的であるが、この世に現れているものはすべて結果であり、現象である。無限なる生命が主であって肉体はそれを表現する器でしかない。肥田先生が神の子、神の器と云われるのはこのことである。何故断言できるのかというと宇宙は無限生命体であり、無限ということは1つということである。結果は実在しないということになるからである。見えるものはすべて仮相である。大悟徹底された肥田先生がこのことを知らないはずはない。知らないということになると大悟徹底されていないということになる。この世は何をすべきなのか?宇宙は無限生命であり、永遠なる生命体である。この永遠なる生命体の中に生まれ、育っている人類は永遠なる生命体である。今、結果の現象をあると思う心が塵の世であり、中心力を使い、無限なる生命が本当の自分であることに気づく。これが焼失してしまった宇宙倫理の書で云わんとしたことのように思う。すべてが1つであれば争いは無くなる。この世はこの法則を体験し、理解し、実践する場所である。理解して本宿に帰る。その為の仮の宿であるという意味が塵の世の意味であると感じる。中心力は宇宙の生命エネルギーであり、永遠なるフリーエネルギーである。そのエネルギーは裡にある。裡にあるということは自分自身が宇宙ということになる。お釈迦さんが云われた「宇宙即我」である。誰もが中心を持っている。誰もが宇宙であり、神であるということになる。神という言葉を今まで宗教家の専売特許のように思っていたが、科学的にいうと原子と電子であり、宇宙の原点である。神様がいるわけではない。見えない生命エネルギーを神と呼んでいるだけ。神は「火、水」でありエネルギーと質料である。すべての原点を指している。この世は生きる世界ではない。法則を理解し、脱皮する現象界ということになる。一生懸命、働いても消えてしまう世界。死ぬ時、肉体と意識が離れる。今まで肉体を自分だと思ってきた。それを1人、1人が問われている。肥田先生の無私の生き方を見るとそう思わざるを得ない。