2022年7月19日火曜日

土壌と意識


 土壌と意識

酸性土壌には酸性の植物が育ち、アルカリの土壌にはアルカリの植物が育っている。虫も酸性の植物には酸性の虫がよってくる。人間は虫がくると殺虫剤で虫を殺す。敵と見てしまう。土壌が酸性体質の為に植物も酸性になってしまう。酸性の虫は中性に戻す為に現れる。酸性の植物がなくなれば、現れることはない。土壌を中性に戻すことで、酸性の虫は来なくなる。すべてはバランスである。土壌と植物は一体である。
人間も同じであり、人間の土壌は意識である。意識したものが顕れてくる。人間は意識が我であり。人間は意識の表現体である。良いことを思えば良いことが現われる。悪いことを思えば悪いことを肉体は表現する。肉体が病むのは心の病みが肉体を通して現れているのである。
人間は肉体が悪くなった時、医者に駆け込む。植物に虫がくると殺虫剤を使って虫を殺す。何故、虫がくるのか?何故、病むのか?を見ない。原因が病をつくっていることに気づかない。
肉体を自分であると思う心が心のバランスを崩し、病気を引き起こす。見えるものは見えないもののバランスで形態を現わしている。すべての本源は心である。意識である。植物と土壌とは1体であり、人間肉体と心も1体である。人間は大宇宙の中の小宇宙であり、小宇宙は大宇宙そのものである。すべては1つなる大宇宙生命体があるのみである。


2022年7月18日月曜日

現象は見えないものを現わす媒体である。


 現象は見えないものを現わす媒体である 

宇宙は1つなる無限なる生命体。1つしかないものの中に2つはない。ということは見える万象万物は存在しないということである。真理は1つである。見えないものがだけがあるということになる。
物事を単純に考えればいいのではないか。
見えるものはすべて1つなるものの化身であるということは人間も現象であるということになる。存在していないということになる。何故人間は生きていると錯覚してしまっているのか?
それは1つなる生命は見えないために、見える質料が動いているように見える。見えないものが動かしているとは殆どそのようには思わない。それに気づく時がある。死ぬ時である。死ぬ時は肉体と見えない意識が分離する。また息が止まると肉体は動かなくなる。こ゚の時に見えないものが見えるものを生かしていることに気づくチャンスなのであるが、殆どのものが肉体に生きているため気づかない。肉体は休んでいても心臓も止まらない。自分と思っている肉体も死ぬ時、自分では決めることはできない。冷静に考えると理解できるが、人間という固定観念があるため見流し、聞き流してしまっている。如何に固定感を取ることが難しいかを感じる。一度思った固定観念は余程のことがない限り漂白できない。知識で解っていてもできない。
素直な心に中々なることができない。幾ら説明されてもこの固定観念、自我からの解放ができない。外を見る心が内なる心を閉じ込めてしまう。肥田先生の「誠」は深い意味を持っている。自分があると思う人間には肥田先生の云わんとすることは理解できない。無我になって初めて理解できる。肥田式を使って少しでも自分の能力を高めようとする自我の人間には肥田式は理解できない。肥田式は目に見えない利動力、生命の気づきの為の鍛練だからである。
中心力とは宇宙であり、我であるから。本当の我は見えない原子と電子である。無限の生命、永遠なる生命が本当の我である。お釈迦様が云われる「宇宙即我」である。
見えるものに生きるは死、見えない生命に生きるは永遠であるとキリストも云われている。
肥田先生は「中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは 米を抱いて餓死するが如し」と云われている。すべて同じ意味である。


      

2022年7月17日日曜日

人間という現象我の克服


 人間という現象我の克服

宇宙内は1つなるバイブレーションによって生命が存在している。バイブレーションの違いによって様々な形態が造られ、その中に1つなる生命が宿り、その形態の中で神の波動を放射している。生きているのである。生きているのは神の波動である。姿、形は神の波動を現わす器である。人間は文明を発達させようとして地球のバランスを崩し、天変地異を繰り返している。この間違いにいまだに気づかない。
人間という波動の低い状態で文明を発達させようとするため、地球のバランスを崩す。
現象の人間は実在しないことを認めることができれば地球は地の星から光る星になる。この任務を人間に与えられている。人間は神の子であり、神の器である。万物の霊長なのである。
全ては1つなる中心生命体が実在している。見えるものはなに1つ実在しているものはない。
すべてのすべてありてあるものは1つなる生命、目に見えない原子と電子、神である。これ以外実在しているものはない。中性なる光だけが実在している宇宙生命体。この中で万象万物は現象化している。1つなる生命が現象化させている。真理は1つである。人間は波動が低い状態が故に姿、形として現れている。人間は宇宙で1番偉い存在であると思っている。
これに気づかない限り、地球の進化は望めない。人類は今、動植物以下の生き方をしていることに気づかない状態である。1人、1人が自分の波動を上げ、この現象界から抜け出すことで人類を救うことができる。


2022年7月16日土曜日

見えるもの、見えないもの 原因、結果の法則


 見えるもの、見えないもの 原因、結果の法則

宇宙のたった1つの生命が万象万物を現わしている。これが神であり宇宙生命である。万象万物は一なる生命の現われである。この1つなる生命が実在しているだけである。見えるものはすべて1つなる生命体が見えるすべての根源になる。この見えない実在しているものを現わすものとして神という字を当てている。神様が特別に存在することでない。存在するという宗教があるとすればそれはまがいものである。
すべては1つなるものの現われである。この1つなるたった1つの法則を神、仏、天照大神と呼んでいるに過ぎない。見えるものは1つなるものの現われ。すべての万象万物は同じものであるということになる。色心不二である。宇宙は1つである。人間も1つなる生命の現われである。人間は1つの生命である事に気づかず、1つの中で、見えるものがあると信じ、争いを繰り返している。生命は永遠であり、人間も現象として現れているだけであり、形が変化するだけで、なくなることはない。何故、このことに人類は気づかないかというと波動が低いために気づかないだけである。見えないものは永遠、見えるものは見えないものの現われ。現象になる。1つなるものの中に2つはない。見えるものはすべて現象である。万象万物は現象であるということになる。原因は見えない。見えるものは結果であり、すべては1つなるものである。


2022年7月14日木曜日

心身強健術の意味


 心身強健術の意味

肥田式強健術は心身強健術である。
一般的に肉体を鍛錬することで、身体の能力を高めようとするが、肥田式強健術は心身を共に鍛え、能力を引き出そうとするものである。
肥田式強健術の中に八大要件というものがある。これは肉体と心を共に鍛える内容である。肉体は心によって動かされてしまう。宇宙は陰陽の法則で動いている。バランスでエネルギーが初めて使える。肉体だけを鍛えてもエネルギーは引き込むことはできない。肉体だけを鍛錬するとバランスを失う為、肉体を痛めてしまう。
肉体は何の為に存在するのか?自分の為に使い、自分の能力を高め、自分がより良く生きる為に使うのではない。宇宙の無限大のエネルギーを地上界に降ろし、地球の波動を上げる為に肉体は作られている。地球波動が上がれば争いはなくなる。
目に見えるものは現象である。形であり、外観である。実際にあるものは外観の中身である。中身がなければ外観は現れることはない。中心なるもの、中なる心がなければ外観の形が現れることはない。肉体は中心なる心、エネルギーがなければ肉体は使うことはできない。
心身は1つであり、肉体は現れている結果、心は現象を現わしている原因。2つで1つである。肉体と心は別々のものではない。現れている肉体は心、エネルギーによって肉体は作られ、現れている。中心なるエネルギーにより肉体は動かされているのである。肉体は初めからあったのではない、作られたものである。心、中なる心によって、エネルギーによって造られたものである。形はエネルギーと質料のバランスによって肉体は現れている。肉体はエネルギーを現わす媒体であり、肉体は人間が人生を生きる為にあるのではない。



2022年7月12日火曜日

天寵無限


 天寵無限

肉体を持つ人間は肉体を我と思っている為、力を得ようとする時、筋肉を鍛えようとする。
肥田式強健術は正中心、聖中心という字を当てている。
肥田先生の書に「天寵無限」という字がある。これは何を意味しているのか?
宇宙は無限大のエネルギーであるという意味である。無尽蔵に使っても減らないエネルギーであるということである。このエネルギーをどのようにして引き込むかということである。
肥田先生は人間は神の子であり、神の器であると云われることと肥田式強健術が聖中心道の名前を使っている意味は宇宙の力を肉体を通して受け流す鍛錬が肥田式強健術であるということである。それには宇宙と一体になり、無我になり宇宙エネルギーを取り入れる。取り入れるというのではなく、無限大の宇宙エネルギーを受け流す媒体が肉体であり、宇宙エネルギーが我であるということである。
無限大の宇宙エネルギーを引き込む意味はバイブレーションの高い波動を地上界に降ろすことであり、地上界の波動を上げることで争いを無くそうとする意図が肥田先生にあったのではないかと思う。肥田先生も万物の霊長である人間のすべき使命を感じていた。肉体を鍛錬して自分の肉体の能力を高めるためのものだけに作られた鍛錬法ではないと思う。
自我では天の力を使うことはできない。天と一体になることで初めて使うことができる。
霊肉一体で使う。それが気合である。気合、気は天であり、天と一体になる。肥田先生が最初に出された心身強健術の本の冒頭に「気合で鍛錬する」と書かれている。この意味をしっかりと受け止めなければならない。
このブログは自分の鍛練のために書いているブログである。肥田式の鍛練者の方々には参考にならないかも知れない。


2022年7月11日月曜日

伸ばせばバター如く、縮めば鋼鉄の如く


 伸ばせばバター如く、縮めば鋼鉄の如く

人間の身体は「躬」という字を当てていた。身体は弓のように使うということである。
上半身と下半身の使い方が真逆であるということである。伸ばせばバターの如く縮めば鋼鉄如く動く筋肉という筋肉はゴムのような筋肉である。
身体の力の配分で中心力10、部分力9の割合で使うということは上半身には筋肉を付けてはならないことを意味する。筋肉を付けるということは筋肉は固くなり、自由性を失ってしまう。上半身は伸ばして使うことで遠心力を利用することができる。抜刀術で刀を使う時、切っ先3寸と云われている。遠心力を使うことで絶対に身体を痛めることはないことを肥田先生は断言している。遠心力を使うということは宇宙の力を引き込むということである。
宇宙のエネルギーを身体を通して引き込む方法でもある。宇宙はエネルギーそのものである。
人間は宇宙生命を現わす媒体として存在してしている。たった1つなる生命があるだけ。我は宇宙生命なり。我は神の器であり、神の子である。すべては神である。神とは見えない1つなる生命エネルギーのことである。宇宙の永遠なる生命がすべての根源である。見えないものを現わす言葉として神という字を当てているだけで神様が別に存在しているわけではないのである。宇宙の原子と電子を神、仏、天照大神と云っているだけである。宇宙は無限生命体であり、万象万物はすべてが神の化身である。無限の中に有限的な神は存在しない。1つなるものの中に2つは存在しないのである。