現象は見えないものを現わす媒体である
宇宙は1つなる無限なる生命体。1つしかないものの中に2つはない。ということは見える万象万物は存在しないということである。真理は1つである。見えないものがだけがあるということになる。
物事を単純に考えればいいのではないか。
見えるものはすべて1つなるものの化身であるということは人間も現象であるということになる。存在していないということになる。何故人間は生きていると錯覚してしまっているのか?
それは1つなる生命は見えないために、見える質料が動いているように見える。見えないものが動かしているとは殆どそのようには思わない。それに気づく時がある。死ぬ時である。死ぬ時は肉体と見えない意識が分離する。また息が止まると肉体は動かなくなる。こ゚の時に見えないものが見えるものを生かしていることに気づくチャンスなのであるが、殆どのものが肉体に生きているため気づかない。肉体は休んでいても心臓も止まらない。自分と思っている肉体も死ぬ時、自分では決めることはできない。冷静に考えると理解できるが、人間という固定観念があるため見流し、聞き流してしまっている。如何に固定感を取ることが難しいかを感じる。一度思った固定観念は余程のことがない限り漂白できない。知識で解っていてもできない。
素直な心に中々なることができない。幾ら説明されてもこの固定観念、自我からの解放ができない。外を見る心が内なる心を閉じ込めてしまう。肥田先生の「誠」は深い意味を持っている。自分があると思う人間には肥田先生の云わんとすることは理解できない。無我になって初めて理解できる。肥田式を使って少しでも自分の能力を高めようとする自我の人間には肥田式は理解できない。肥田式は目に見えない利動力、生命の気づきの為の鍛練だからである。
中心力とは宇宙であり、我であるから。本当の我は見えない原子と電子である。無限の生命、永遠なる生命が本当の我である。お釈迦様が云われる「宇宙即我」である。
見えるものに生きるは死、見えない生命に生きるは永遠であるとキリストも云われている。
肥田先生は「中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは 米を抱いて餓死するが如し」と云われている。すべて同じ意味である。