2022年8月29日月曜日

固定観念とは


 固定観念とは

何ぜ固定観念という言葉があるのだろうか?
固定観念を持ってはいけないと誰もが云う。物事を固定して見てはいけないということである。物事は常に変化してしまうものである。見えるものは変化して止まないものであるということである。結果である。見えるものは見えないものによって現わされている。見えるものと見えないものは1つであり、2つで1つである。見えるものだけを見てあると思う心が固定観念であり、分離感である。見えるものは実在しないのである。形であり、形には何の力もない。偶像である。これをあると思う心が固定観念という分離感を持ち、知識で自分は分かったつもりになってしまう。答えを外に求める生き方になってしまう。青い鳥を外に求めるようになってしまう。
固定観念という自我は取れそうで取れない。真剣に自分に向き合わなければ取れない。
全ての答えは自分の裡のあるのであって外にはないのである。
自分の目的意識をはっきり持ち、事に当たることで徐々に固定観念は取れてくる。
思い込みで、やっているつもりで、実際は安易に勝手に形だけをなぞっている。聞く耳を持たない。幾ら言っても自分は正しいと思い込み、つもりで行っている。それに気づかない。本人は自分ではやっていると思っているからそれ以上は言えない。気づくまで待つしかないのである。その内に本質から離れてしまう。
固定観念、思い込み、先入観、この五感の自我から抜け出すには真剣に素直な心で自分と向き合わなければならない。最大の敵はこの固定観念である。すべては1つの法則によって動かされている。固定観念は自我である。本来は自我はなく、無我である。人間は形に人間と云う名前を付けているだけで後付けの名前であって人間という初めから生き物は存在していない。形の名前である。「人間は宇宙の塵にて人間と云う形を造り、息を吹き込まれた」と聖書の書かれている。
宇宙は1つなる無限生命体であり、人間は宇宙細胞体の細胞の一部である。人間が居ると思う心が自縛し、迷いを持ってしまう。無限なる中に有限なる自我は存在しない。万象万物はすべて1つなる生命の結果の現象である。自分は存在しないのだから悩むことも不安もないのである。不安がある人は自我である。生かされていることに気づかず、自分で生きていると思っているものは宇宙生命体のがん細胞である。固定観念は実在しない見えるものをあると思う心が自分を縛ってしまう。



2022年8月26日金曜日

宇宙は1つなる完全なる全知全能の生命体


 宇宙は1つなる完全なる全知全能の生命体

見えるものはすべて宇宙の生命体が宿り、永遠なる生命体を現象化させている。
生命体が見える現象ごとにあるのではない。あるとすれば宇宙は成り立たない。人間の細胞体もこれほど精妙に造られている。人間が作ったのではない。人間はこれを解明しているだけでいるにも関わらず、自分が作ったと思い違いをしている。
宇宙は1つなる生命体であり、無限の生命エネルギーを現わす為にそれぞれの形態を造って生命活動をしている。人間は1つなる生命を現わす器、道具に過ぎない。
宇宙は1つなる完全なる生命体であり、中性の生命体である。
人間は宇宙から見ると見えない塵のようなもので、存在すらもわからないくらい、微細な細胞体である。宇宙は1つの細胞体であり、宇宙全体の中に見えない細胞である。人間の細胞も宇宙と1つで生命活動をしている。人間細胞は宇宙の法則で動かされている。
現象面で生きる人類は見える片側で生きるため、バランスを崩す。1つとして生きれば永遠なる生命で生きることができるものをアンバランスで見えるものだけに生きる為にバランスを崩す。文明が発達するとアンバランスがバランスを取ろうとして天変地異で元にもどざれてしまうのである。宇宙は完全バランスであり、永遠なる生命であり、その中に存在しているものは永遠なはずである。見える現象は変化して止まないが見えるものがなくなることではなく、変化しているだけに過ぎない。人間はこの現象に生きてしまう為に形がなくなることを死と呼び疑いもなく、仮相の現象に生きてしまっている。宇宙は1つなる無限生命であり、現象に生きるから生老病死の四苦に悩まされてしまう。1つのものを分離させる為にバランスを自ら崩し現象の肉体に生きてしまう。バランスが生命であることを忘れている。中性が生命である。
昆虫達のように青虫から蝶に脱皮しなければならない。この世はその為の仮の宿、浮世である。肉体の我から中性の我の本宿に戻る為の現象界である。


2022年8月24日水曜日

人間は自分を持つと能力が出ない何ぜ?


 人間は自分を持つと能力が出ない何ぜ?

一心不乱、一所懸命、必死の覚悟、背水の陣、すべて自分を捨てて無我の状態になる時、裡から力が湧き上がってくる。
宇宙は1つな生命体である。全体で1つである。全体の中の1つの細胞が全体と分離して自分は自分で動く時、全体の力が使えない。自分には知恵も力もない。全体の中で生かされている存在である。1つになるということは全てが1つになるということである。
会社でも社会全体の1部であると1つの会社が意識するとお客と作り手が1つになれる。邪な考え方で会社が1つになっても全体が1つにならなければ、会社は社会の波に持て遊ばれてしまう。
この世は1つなる生命の現象界、仮の宿である。現象は存在しない。存在しない中で生きようとする為、分離感を引き起こす。其処に争いが生じる。現象は仮相であり力はない。本来は何も学ばなくても良いのである。すべて完全なる中にいるのである。宇宙は1つなる完全なる無限生命体、完全なる生命エネルギーを放射させる為に人間と云う現象の器が現れている。
この神の道具を自分と勘違いをするためにこの現象界から抜け出すことができない。
キリストが云われる「現象、肉に生きるは死」であると云われている。
ないものをあると思う自我の心が自分を小さな消え行くものの中に縛ってしまっている。
宇宙の1つなる生命を小さな有限なる中に自ら閉じ込めてしまっている。1つなる宇宙生命を神、仏陀、天照大神と名付けている。1つしかないのに色々な神がいる訳はない。
色々な呼び方があるのである。部分的な見方しかできない為、そこに自分が一番正しいと争いを起こしている。宇宙は1つなる生命体であることが理解できれば仮相の中で争いはしなくても良い。仮相を自分と思ってしまうと解脱、昇天は波動が低い為、できなくなる。
現象界の低い波動から肉体の裡に宿る高波動に上げて行く。これが現象界での成すべきことである。肥田先生も「中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは 米を抱いて餓死するが如し」と云われている。生きていても意味がないということを云われている。自分は存在しない。中心、中なる心が我である。これに気づく鍛錬、自我を取る鍛錬が肥田式であると思っている。
肉体鍛錬がいけないと云っているのではない。中心力が身に付けば自ずと健康にはなる。それぞれの考え方で行なえば良いと思う。肥田式が万芸の泉と云われるのはこの中心力にある。





2022年8月22日月曜日

肥田先生が云われる神の子、神の器という意味は?

 

肥田先生が云われる神の子、神の器という意味は?

中心力とは形があるものの中には必ず中心がある。中心力が形を現わし、維持している。
宇宙は1つなる生命であり、生命は見えない。見えない生命が現象を現わし、その中に宿り、生命活動をしている。その形を神の器と云い、中心に宿る中心生命力を神の子と云われている。
宇宙は1つなる愛の法則であり、これ以外何もない。見えるものはすべて現象であり、実在していない。宇宙に実在しているものは愛の法則、陰陽の法則だけが実在しているだけである。
見えるものはすべて消え行く現象である。万象万物はすべて現象である。神の子というのは実在であり、永遠なるものである。神の器は現象であり、消え行くものである。
肥田先生は日本の国の為に尽された。戦争というものを如何に克服するかを常に考えておられた。それが宇宙倫理の書であると感じる。宇宙は1つなる生命体であり、1つの中で争いをしなければならないのか?神の子とは宇宙であり、すべては1つである。宇宙は1つなる家族である。これを伝える書が今は焼かれて存在していないが、宇宙倫理の書であると思う。
人間が神の子、神の器と云われる意味はすべての人類は神の子であり、神の器であるということを云われている。1つの中で争いはしてはならないと。
神の子であり、神の器であるということは神のバイブレーションに上げることで戦争は防げると云われているように思う。宇宙は波動の世界であり、肥田先生の作られた強圧微動術も波動を上げることで病気が癒されている。宇宙は波動の世界であることを知って居られた。天真療法も然りである。中心バランスである。肥田式強健術は只の健康法ではないのである。これを理解する人は少ないと感じる。肥田先生の行なって来られたことはすべての人間が持ち合わせているものである。



2022年8月21日日曜日

中心力と利動力


 中心力と利動力

宇宙は1つなる生命体である。無限生命体である。無限の中に有限は存在しない。宇宙は中性である。絶対バランスである。これだけが実在している。中性は陰陽の法則である。
自然界はこの法則を作用、反作用という形でエネルギーを引き込み、使っている。肥田先生の中心という書には丸が描かれている。永遠という意味である。すべての根源はこの中心から発している。人間、万象万物は存在していない。現象である。人間は形の呼び名であって実在していない。宇宙に実在しているものは愛の法則だけがあるのみ。見えるものはすべて現象である。
見えない実在しているものが様々な現象を現わしている。
中心とは中の心と書く。心とは意識のことであり、想念意識である。この見えない意識が創造の原理であり、神と呼ばれているものである。
本当の我は見えないものである。自然界はこの見えないエネルギーを反作用として使っている。それがヨットであり、グライダーである。自然界の鳥たちもこの見えない力を使って生きている。人間はこの力を使わずに自分で行なおうとする。作用、反作用の力を使うことで本当の我に気づいて行く。中心力が我であり、肉体は器であることに気づく。この世に波動を上げる為に人間は存在している。人間は仮相である。これに気づく。その為の中心力である。





2022年8月20日土曜日

人間はこの争いの世界から抜け出せないのか?


 人間はこの争いの世界から抜け出せないのか?

十戒の映画の最後に出てくる言葉がある。「すべてのすべてありてあるものは神である」すべては1つなる神、生命である。宇宙は1つなる生命体である。1つなる生命が様々な形態を造り生命活動をしている。日本でも八百万の神と云っている。1つなる生命が八百万の神の化身を造り、その中に宿っている。すべては1つなる生命の現象である。現象は実在していない。消え行くもの、変化してしまうものに人類は気づかず、この見えるものをあると信じ、奪い合いをする。聖書に書かれていてもそれを信じない。宇宙は1つなる波動の世界である。見えない神のバイブレーションが見える姿を現す。神の化身の現われの世界である。この世の見える世界での財も低バイブレーションの世界で使う道具であり、高バイブレーションの世界では必要としない。この世は生きる世界ではなく見えるものの中に宿る神の波動と一体となることで波動を上げ、現象界から離脱して行く仮相界、俗世、仮の宿である。波動を上げることができなければまたこの世界に舞い戻ってしまう。現象界から卒業できない。
宇宙は陰陽の法則で永遠なる生命活動をしている。人間は一番偉いと思っているが宇宙生命の中の目に見えない細胞体である。それを我もの顔で振舞っている。見えるものは現象であり、その消え行く中で争いを起こし、同じ生命体を殺し、仮相の世界に生きている。
見えるものが消え行く現象であることに気づくことができれば争いはなくなる。
争いをすればするほどこの地獄界から抜け出すことができなくなるこが理解できない。宇宙は絶対バランスであり、永遠なる生命体である平安なる世界にアンバランスの波動の低い人間は入ることはできない。天地一体、すべては1つである。見えるものの中に見えない神の波動が見えるものを現わしている。これに気づき、この波動と1体となり、現象界から離脱して行く。死んで天国に行くのではない。天国、地獄は意識の状態である。生きている内に解脱、成仏できなければ死んでは成仏できないと。こ゚の低波動の現象界から抜け出すか、抜け出さないかは本人の自由意志に任されている。誰かがやってくれる訳ではない。自分でやるかやらないかなのである。21世紀は波動の高いものが天国を造って行く時代になる。世代交代である。



2022年8月19日金曜日

中心力が我である


 中心力が我である

一般的に人間が自分だと思っている人が大方であると思いますが、宇宙は無限生命であり、無限生命の中に有限なるものは存在しない。万物は現象である。聖中心道は宇宙の無限大の生命エネルギーを肉体を通して現わす媒体として使って行く。天寵無限という言葉は人間が居て、宇宙の力を引き出すことではない。人間は宇宙の塵に息を吹き込まれた存在なのである。人間が中心ではないのである。人間は宇宙細胞の小さな細胞であり、生かされている存在である。宇宙力は高バイブレーションであり、人間の自我では引き出すことはできない。無我、自分を捨て宇宙と1体になって初めて無限大のエネルギーと知恵が引き出すことができる。
形あるものには必ず中心があり、中心より宇宙エネルギーが流れ、肉体を維持している。中心力が我である。自分があると思う者は使う事はできない。人間、本来無我なのである。
肥田先生は宇宙と1体となり、この無限大のエネルギーを肉体を通して現わしている。肉体を使って人生を豊かに生きる為に使うものでは無い。宇宙の高バイブレーションの波動を引き込むことで周りの波動を上げて行く。地上界の波動が上げれば争いがなくなる。争いは波動が低い為に起きる現象である。
人間はこの世に何のために生まれて来たのか?お金を儲けるため?結婚して子供を作るため?
そうではない。本当の我に気づき、現象界の波動を上げ、解脱する為に生まれて来ているのである。この世に現象として現れているということは見えるものに囚われ、波動を上げることができず、この現象界に留まっているのである。キリストが「この世で富める者はラクダが針の穴を通るが如し」と云われている。私を含め地上界に形を現わしているものは自分の波動を上げることができず、さ迷っている者の仮の宿である。


2022年8月18日木曜日

神は愛の科学


 神は愛の科学

宇宙は1つなる生命体、1つなる生命が万象万物を現象化させている。見えるものはすべて1つなる生命の現われである。万象万物は1つなる生命の法則によって現象化している。1つなる根源の法則によって現象化している。人間も然り。
この1つなる神の愛の法則によって自然界も現象化している。人間は見えるものだけをあると信じ、現わしているものを見ない為に様々な横暴を働き、自然界のバランスを崩している。
人間は無限生命の中に現象として現れていることに気づけば争いはしない。宇宙は1つなる家族である。見える現象がなぜあるかというのは「すべてのすべてありてあるものは1つなる生命」であることに気づく為に現象がある。現象界は実在しない仮相の幻影の世界であり、この仮の宿で、幾ら働いて財を残してもすべて消えてしまう。見えるものに囚われるとお釈迦様が云われるように生老病死の四苦を持ち込み、不安、悩み、死の恐怖に取り付かれ、人生の荒波に持て遊ばれてしまう。波動を上げることができない。実在しない仮相界で現象界から離脱して波動を上げ、高バイブレーションの神の本宿に戻る。神の愛の法則によって現象界を離脱して行く。宇宙は物質世界ではない。霊界であり、波動の世界である。
想念の世界である。実在するものは愛の法則であり、宇宙科学である。原子と電子の法則の世界である。この見えない法則を神、仏と呼んでいる。




2022年8月17日水曜日

光陰矢の如し


 光陰矢の如し

一般的に月日のたつのは早いという意味で使っているが、光には時間はない。あるのは光によって映し出される質料が陰、影である。影は消え行く存在であり、人間のことを現わしている。人間は宇宙の塵、質料であり、影は光によって動かされている。人間も陰であり、光によって人間の形態が造られ、光によって生かされている。人間は宇宙の塵で人間の形を造り、息を吹き込まれたと聖書にも書かれている。人間は宇宙の塵で形が造られそれを人間と名付けているに過ぎない。形の名前が人間と言う呼び名である。人間は実在しないということになる。
人間の本体は陰に宿る光である。光が影を現象化している。光と影は一体で動く。
光が我であり、影は肉体であり、1つである。肉体を自分と思ってしまうと偽りの自分に生きることになってしまう、生老病死の四苦に惑わされ、生きることになる。偽りの人生になってしまう。本来の我は永遠なり生命、宇宙生命である。宇宙霊光であり本来の我に戻って行く。



2022年8月16日火曜日

無我の境地


 無我の境地

何かをする時、心を1つにしなさいと云う。
心って何?1つの心とは宇宙は1つなる生命体であり、すべてを1つとして行動をしなさいということである。1つということは宇宙は1つの生命体であり、自分を捨てて1つの心になる。心は1つ宇宙の心しかないのである。人間は色々な知識を学んで能力出そうとするが、能力を捨てることであることに気づかない。能力は学ぶものでは無く、自分を捨てることで能力が出てくる。力は作るのではなく、すべてを捨てた時、入ってくる。無我ということは自分を無くす状態になって始めて知恵、力を使うことができる。宇宙の中に居て自分を捨てるということは宇宙と一体になるということである。自分は存在しないということである。自分を持っていると力が使えない。
無我の境地とは自分をなくすことで能力が出てくる、これが宇宙の法則である。
人間は存在していない。人間が存在していると思う心が心が自分を縛っている。




2022年8月15日月曜日

中心バランス

 

中心バランス 

宇宙は1つなるバランス生命体。完全なる中心バランスである。中心バランスとは陰陽の調和であり、其処には中性の光が生まれる。これが力であり、知恵である。宇宙の全知全能の知恵が宇宙の力である。宇宙はこの光の王国である。
宇宙のこの無限なる絶対調和が宇宙の本源、本質である。宇宙の創造神である。これが宇宙の見えない本源、本質である。万象万物はこ゚の完全バランスの中で生かされている。
宇宙はこ゚の1つなる中心バランスによって構成されている。モノが具現するのも中心バランスであり、ものが消えるのもこのバランスが崩れる為の起きる。原点は変化することはないが見える現象だけが変化する。
人間の現象もバランスを失う為の形は見えなくなるだけで本源本質はなくなることはない。人間は姿、形がなくなることを死と呼んでいるが、形はなくなっても本質はなくなることはない。モノが現象するのはバランスであり、消えるのもアンバランスである。
宇宙はすべて絶対バランスである。この中で万象万物は現象化している。生命が様々な形態を現わしている。人間も同じである。バランスで姿、形を現わしている。
人間が病気になるのはこのバランスを自ら、狂わしている為に起きる現象である。
肥田先生が「天真療法」でこの事を説いても皆、医者に走ってしまう。人間は神によって造られた器である。人間は生きる為に存在しているのではない。神の器として存在しているのである。人間は存在しないということに気づかない人類。生命は宇宙生命であり、其処には個人的な人間は存在していない。肥田先生はこのことを知って居られた。肥田先生の言うことを素直に聞くものだけが回復している。我欲の強いものはバランスを失い、肉に死んでしまっている。中心バランスが生命であり、本当の我である。人間は神の子であり、神の器である。自分は存在しないのである。



2022年8月12日金曜日

仮相の我から実相の我へ


 仮相の我から実相の我へ

宇宙は1つなる無限生命体である。1つの中に2つは存在しない。見えるものはすべて現象であるということになる。無限生命ということは生命は無限であり、無限ということは見えない生命体であるということである。無限ということは永遠ということである。見えるものは無限生命の仮の姿であり、現象である。現象は消えて行く存在である。
人類はこの仮想の姿、形をあると信じ、本来の実相の我を忘れ、見える仮相の我に生きてしまっている。本当の我は無限生命であり、永遠なる神の生命体であることに気づかないでいる人類の現状である。仮相に生きてしまうとアンバランスを生み出してしまう。地球のアンバランスを招き、自縛の道をたどることになる。無限生命は完全バランス、こ゚の完全バランスを自ら崩してしまう。1つなる無限生命の中には争いはないが、仮相の世界には分離感のため、争いを引き起こす。争いはアンバランスの結果である。有限なる我から無限なる本当の我に戻る。
人間という仮相の現象の自分から実相の見えない永遠なる生命に戻る。
宇宙には有限なる見えるものは存在しない。見えるものはすべて仮相である。
色即是空、空即是色、色心不二であり、見えるものは見えないものの現われであり、生命の化身である。八百万の神は1つなる生命の化身である。すべては神であり、無限生命である。




2022年8月9日火曜日

見えるもの、見えないもの


 見えるもの、見えないもの

宇宙は唯一の生命体であり、これだけが独存する。
1つの中に2つは存在することはない。見えるもの、見えないものすべて1つである。見えるものは1つの中の現われ、現象である。宇宙は1つなる細胞体であり、見えないものも細胞体であり、その中には時空間は存在しない。1つなる宇宙細胞体、1つなる生命体、宇宙に存在し、見えるものは人間小宇宙の中の臓器のようなものである。宇宙は1つの神体である。すべては1つの宇宙生命体。
1つの中にある見えるものは実在しないことを理解しなければならない。人間はこれが理解できず、現象界の幻想に生き、無いものをあると信じるため、分離感が生まれ、争いの中に自己保存の為に生きてしまっている。宇宙は無限大の質料と無限大のエネルギーが宇宙生命体であることに気づかない。気づけば争いはしない。消え行く幻想の中から脱皮ができずに人類はいる。仮相の中で自分が一番偉いと思い違いをしている。滑稽である。これに気づいた1人、1人が自分の波動を上げ、現象界から離脱して行く。これが現象界で成すべきことである。



2022年8月8日月曜日

宇宙は意識の世界


 宇宙は意識の世界

宇宙は高バイブレーションの世界。見えない世界。
宇宙は1つなる高バイブレーションの世界と現象界の低バイブレーションの世界が同居している。波動の世界である。現象界、見える世界でもエネルギーが高ければ小さくなって行く。細かくなると食べ物でも美味しく感じる。美味しく感じるのはエネルギーが高いということである。
エネルギーは気であり、人間も気の高い人を気高い人と呼ぶ。宇宙は気の世界、意識の世界。想念の世界。すべて見えない世界のことである。
現象界は見えない気の世界が、現象として現れている世界。見えないものが波動を下げることで見える世界を現わしている世界。見えないものも見えるものも1つの生命体である。
形は宇宙には実在しない。1つなる見えない生命体。陰陽の法則、愛の法則が実在しているだけである。神とは法則のことである。神様がいる訳ではない。法則が神である。ピラミットバランスである。
人間は実在しない。実在しているとすれば宇宙は成り立たない。無限生命体ではなくなる。見えるものはすべて神の化身であり八百万の神である。人類はこの仮相の見える世界に自縛してしまっている。消え行く世界から離れ、1人、1人がが本来の自分に戻って行く。見える世界は幻影であり、この世界から離脱して行かなければならない。肉体と思っているものは霊体であり、エーテル体である。
人間は物質ではない。霊体である。宇宙は霊体である。すべては霊体である。1つなる霊意識の世界、見えない世界、陰陽の法則の世界。




2022年8月7日日曜日

蜂蜜に対して「人の持ち物を取るな」と何ぜ言うのか?


 蜂蜜に対して「人の持ち物を取るな」と何ぜ言うのか?

宇宙は1つなる生命体である。無限生命体である。
全ては1つなるものがあるだけである。自分がいるだけである。宇宙即我の境地である。すべては1つである。すべては自分である。すべては自分が判断を出している。
人の持ち物を取るなという意味は1つなる生命の中で取り合いをするなということである。
全ては1つなのである。分離感をもってはいけない。ということを云われている。
全てが我で有れば自分を出して行くしかない。宇宙即我を表現して行く。すべてを持っている我であり、外からエネルギーを取ることはしなくて良い。人間一人、一人がエネルギーの放射体であるということである。人間にはものを生み出す力が備わっている。それに気づかないだけである。



2022年8月6日土曜日

死は嬉しいもの、悲しいもの


 死は嬉しいもの、悲しいもの

宇宙は1つなる永遠なる生命体であり、宇宙には死は存在しない。無限生命の中に有限なるものは存在しない。昆虫達は青虫から死んでさなぎになり、蝶に生まれ変わる、人間も固体から空に離脱して行く。肉体の死は脱皮なのである。これは喜ばしいことなのか?悲しいことなのか?死を認めるとまた人間に生まれてくる。脱皮できるまで。自然界の昆虫たちは脱皮して成長をさせている。
人間だけが肉体芋虫にしがみつき、死を恐れ、生きている。昆虫たちは死を恐れて生命保険には入っていない。無限の中に有限なる死は存在しない。見えるものは現象であり、実際にはないものである。何故、人間と言う人形(ひとがた)が現象化してるのかというと宇宙の生命エネルギーを放射させる為に波動の高い万物の霊長と云われる人間の媒体を使っているに過ぎない。宇宙には姿、形は存在しないのである。あるのは空なる生命体が実在しているだけである。人間を動かしているのは目に見えないものが肉体を動かしている。
見えないもの「意識、空気、想念、大気、息、心、」色々な呼び方はあるがすべて1つなる生命のことである。見える現象をあると思う心が死というものを作っているだけである。
宇宙には死は存在しない。









2022年8月5日金曜日

争いは何ぜ起きてしまうのか?


 争いは何ぜ起きてしまうのか?

宇宙は無限生命体であり、1つの中には争いは生じない。宇宙は見えるもの、見えないものはすべて1つなる生命の現われであるが見えるものを現象とは気づかずにあると信じる心が分離感を生み、消え行く世界の中で自己保存が働き、争いを起こしてしまう。
宇宙は無限大の見えないエネルギーと質料であることを知ることで空よりエネルギーを調達できることがわかれば有限なるものの中から敢えて取ることはなくなる。完全なる宇宙生命の中で外部からエネルギーを入れることは必要ない。人間という仮相を使って地上界に生命エネルギーを放射させる為に人間と言う媒体があるのである。永遠なる生命体の中ですでに安泰であるのにあえて有限な生老病死の四苦の世界の中で生きることはない。
見えるものをあると信じる心が争いの元を作っていいる。このことを人類は理解していない。


2022年8月4日木曜日

不老不死


 不老不死

肥田先生の著書に書かれている秦の始皇帝の話。
秦の始皇帝は自分の中に不老不死の仙薬があることに気づかなかった。とハッキリ断言している。
何故、そのように言い切ることができるのか?
宇宙は1つなる生命体で永遠なる生命体であることを理解されていたからである。宇宙は無限生命であり、人間は永遠なる生命体の現象であることを知っていたということになる。それが強圧微動術、天真療法の骨子にもなっている。
宇宙は完全バランスの中性の生命体であり、陰陽の生命バランスの生命体である。
宇宙倫理の書も原点は1つである。この宇宙には1つなる生命体があるのみで人間は存在しないことを知っておられた。常に肥田先生は無私、無我でおられる。この世を「塵の世」と云われている。人間を離脱されていたのだと思う。肥田先生のことを波動の低い人間が詮索することはできない。次元の低い人間が理解できない世界に肥田先生は居られる。肥田先生の逸話に中に「的に当てると100発100中であり、当ててから投げるから当たるのだ」と云われても一般の人には理解はできない。宇宙は永遠なる無限生命体であり、人間1人、1人はこの無限生命の中に存在していることは確かなことである。生命は1つであり、肥田先生の生命も我々の生命も同じ生命である。誰もが宇宙の永遠なる生命の中に生まれ、生かされている。故に人間には死は存在しない。形を見るから死と思ってしまうが、死と思ってしまうと自縛ですが、昆虫のように脱皮して行くのであって仮の宿から本宿に戻る途中なのである。青虫がさなぎになり蝶になって行くように人間も人間芋虫から解脱して行くのである。死は次へのステップなのである。
故に不老不死なのである。見える世界は実在しない仮相界であり、この世を生きようとすると生老病死の四苦に悩まされ、低波動の人間から抜け出せなくなる。「汝に見るもの受け継がん」また気づくまで人間をさせられる。




2022年8月3日水曜日

中心の鉄扉(2)


 中心の鉄扉

中心の鉄扉を開かずして生涯を終るものは
     米を抱いて餓死するが如し
肥田先生のこの言葉は非常に重い言葉である。人間に生まれているものの中にどれだけ中心の鉄扉を開いているものがいるのだろうか?
中心力とは宇宙力であり、宇宙と1体になっている人間である。自分を持っていない人である。
自分を持っている人間は自我であり、宇宙全体が本来の自分であり、姿、形を自分と思っている人間は「米を抱いて餓死するが如し」である。人間という姿、形に囚われてしまうと自縛してしまう。肉体を自分だと思ってしまうとキリストが云われるように肉に生きるは死である。肉に死ぬものはまた肉に生まれると。肉体鍛錬の為に肥田式を学ぶものは死であるということになる。中心力が我であることを理解し、本当の我は肉体でなく、中心生命が我であることを理解して行くことを意味している。見える肉体波動は低バイブレーションであり、高バイブレーションになると形を持たない。肉体は実在してはいない。1つなる宇宙生命体の1つの細胞体が人間という小我の化身であり、化身の中に本来の我が宿っている。宇宙生命の法則、愛の法則に基づいて生かされている存在であり、全体で1つであり、個々のものは存在していない。1つなるものの中に2つはない。無限生命の中に有限なる生命は存在しない。
人間は人間もいて、宇宙もあると思っている。中心の鉄扉とは我は人間ではなく、1つなる宇宙生命であることを理解する。肥田先生が「天寵無限」という言葉も宇宙と1つになって使えるという意味である。人間がいて宇宙力は絶対に使うことはできないのである。
中心力は誰にでも備わっており、誰もが1つなる中心生命から生まれている。この中心力を使い、人間の低波動を高め、肉体を離脱させて行くことを中心の鉄扉に隠されているものである。


2022年8月1日月曜日

中心力は宇宙生命力


 中心力は宇宙生命力

肥田式は中心力活性法であるが、肉体は宇宙の生命体の現象であり、肉体を幾ら鍛えても現象を鍛ええることになる。肉体は中心力によって造られている。中心力は目に見えない。肉体を通して使う。何かの媒体がなければ中心力を現わすことはできない。故に心身強健術なのである。肉体と心を1体として使うことで中心力が肉体を通して現れてくる。中心力は肉体の強化のために使うのではない。肥田先生は中心力を使うことで地球の波動を上げているはずである。これが第3次世界大戦を防ぐ方法だからである。
中心力は宇宙力であり、現象の消え行く人間は使うことはできない。自分を無くし、無我の状態になって初めて使うことができる、人間は現象であることを理解できなければ使うことができない。大悟徹底されたということは悟空であり、肉体離脱をされているということである。
中心力を使うことは、見える世界から見えない生命の世界にもどる為の足掛かりである。
現象界の人間を生きることではない。宇宙は1つなる生命体であり、1つの中で争いは必要はない。強くなろうとすることは現象を生きようとするものである。肥田先生が云われているように「この世で強い人間は地位も名誉もお金も命もいらない」人間である。人間を捨てたものが一番強い。無我であると。