2023年11月30日木曜日

真理は1つ


真理は1つ

宇宙は1つなるプロフェクトバランス。完全バランス、完全調和、愛の法則。中性なる宇宙生命体。
これが真理であり、1つの宇宙細胞体である。
この1つなる細胞体の中に万象万物は1つなる生命体によって様々な形態が現象化し、宇宙生命がその中に宿り、宇宙生命が生命活動をしている。
完全バランスが宇宙生命体の本源、本質であり、この絶対バランスは崩れることはない。
この完全なる生命、中性バランスが生命であり。原因なき、原因、生命である。この絶対バランスが宇宙の本体である。このバランス、陰陽の法則が全知全能の力であり、知恵である。
現象界もこのバランスで生命活動がなされている。
陰と陽が1つになることで中性なる生命が誕生するが、この現象は波動が低い為に見える形態になる。原因は高バイブ霊ーションの愛の生命の法則、見えるものは低バイブレーションの愛の法則。見えるものは外敵条件により、常に変化して行く。見える現象界はバイブレーションの変化により、変化して止まない諸行無常の変化の世界。宇宙は完全なる生命界、霊界であり、観自在、無碍自在の世界である。
この1つなる原因の世界が宇宙生命の真理である。普遍不動の真理の中性なる世界。愛の世界。善のみの世界。
この1つなる真理を見えるものと見えないものに分離させてしまい、現象をあると信じ、善悪を自ら造り、この善悪の世界から抜け出せない人類、私も含めて。
見えるものは波動を下げることで現象化しているだけなのである。高気圧の時は天気が良いが、低気圧の時には雨、雪になるようなもので、気圧が低い為に起きる現象である。
人間の姿、形も低バイブレーションであるために現象化しているだけである。元は高バイブレーションの空である。真理は1つなる空である。

 

神と現象


神と現象

今まで神は人間とは別の存在と思っておりましたが、宇宙は1つなる生命だけが実在している。
宇宙の外に神がいるのだろうか?
キリストは「すべてのすべてありてあるもの」が神であると。

宇宙そのものが神であるということを云われている。
神というのは宇宙そのものが神であるということを云われているのであって人間の他に神は存在しないのである。見えるもの、見えないものすべて神、我も神ということになる。
宇宙は陰陽の法則により、様々な形態が造られ、生命活動をしている生命体。これが神なのである。すべてが神なのである。神を祀りたてる宗教は神を理解できない宗教であると云うことになる。祠を祀って神を崇拝しているが、宇宙そのものが神であり祀りようがない。
ままごと遊びに見える。神は自分自身であり、すべてが神であることを理解することが必要になる。
何故こんなことを云うのかというとすべては1つなる生命体であり、神を外に求めてしまうと分離感で争い、対立を起こしてしまうからである。同じ生命体の中で、殺し合いをしている。
人間は万物の霊長であると云われているが、情けないことに万物の霊長の意味が理解出来ていない。すべてが霊なのである、霊には区切りはない。生命には区切りがないのである。
見えないものが見えるものを顕している。原因、結果の法則で宇宙は成り立っている。
今までこの見えない生命を神と云い、仏と云っている。
見えるものだけを見て分離感でものを見る為に争い、対立を起こしていたのである。何で馬鹿なことをしてきたのだろうか?1つのものを分離して見る為、争いを繰り返して来てしまっていたことに気づかなかった。
これから外なる見えるものは果相であり、本当の我は見えない生命の我であることに気づいて行かなければならない。キリストは生命のパンを食しなさいと云われているが、このイエスの云われた生命のパンに気づくことができなかった。キリストに申し訳ない。生命を理解すれば分離感はなくなる。宗教戦争もなくなる。
分離感のために争いが生じる。神と現象は1つのものであることを理解しなければならない。
1つであることが理解できればこの現象界には生まれることはなくなる。
理解できるまで、現象界に戻される。これを輪廻と云っている。輪廻は実在しない。キリスト教は輪廻を認めない。輪廻は現象界、果相界にあるにだから。神の世界には輪廻は存在しない。宇宙は普遍不動の生命界であり、生命界は無形無双であり、生まれ変わりはないのである。イエスは輪廻を認めない。ブッダが輪廻を認めているのだとしたら、その現象意識に居るということになる。でも宇宙即我とも云われている。もし現象界から離れたのにあれば肉体を残したのであろうか?疑問である。本当のことは解らない。波動を上げ、ブッタに聞くしかない。




 

2023年11月29日水曜日

原因、結果は1つである


原因、結果は1つである

見えるものには必ず顕わしているものがある。
原因と結果は2つで1つである。
宇宙は1つの生命体であり、1つの中に2つは存在しない。見えるものは1つなる生命体の顕れであることが理解することができる。
生命は見えない高バイブレーションの霊界。この霊界は気体であり、姿、形を持たない。見えるものも霊であり、物質ではないのである。常に変化して止まない質料である。
宇宙は完全調和の生命体。原因なき原因。完全バランスの中性生命体である。陰陽の法則である。大宇宙は小宇宙であり、小宇宙の法則も同じ陰陽の法則で動いている。宇宙は原因、万象万物は結果、見えるものも見えないものも1つである。
深く考えずにこれを認めるだけ。下手な理屈はいらない。宇宙神、宇宙は神である。神は宇宙である。日本語は真理を顕す言葉である。
色心不二、天地一体、自他一体、表裏一体、霊肉一体。これは何を云わんとしているのか?
すべてが1つであるということである。真理を紐解く時に日本語の素晴らしい真理を顕す言葉に感謝である。

 

2023年11月28日火曜日

宇宙は1つなる霊体である 我も霊なり


宇宙は1つなる霊体である 我も霊なり

人間は万物の霊長である。万物はすべて霊の化身である。すべてのすべてありてあるものは霊であり、気体である。宇宙は1つなる霊体である。
プロフェクトバランス、完全バランス、完全調和、陰陽の法則、宇宙は永遠なる中性なる生命体である。
1つなる生命の中の現象として見えるものは存在しない。故に1つの気体の顕れということになる。
万象万物はすべて現象である。霊の現象であることが理解できる。見えるものと見えないものの違いはバイブレーションの違いである。
鉱物、植物、動物には自由意志は与えられてはいないが、人間にだけ自由意志が与えられている。この自由意志は神の生命エネルギーを顕現する為に使うように与えられているが、これを現象の果相に使ってしまった為に現象の実在しない生老病死の四苦に囚われている。
宇宙には1つなる霊、生命の気体エネルギーが存在するだけであるが、現象が存在すると意識してしまったためにこの四苦に惑わされている。
現象は細胞体の集合化したもので、低波動になっている。これを意識するとこの波動に同調してしまう。本来は気体波動なのであるが、意識することでその波動になってしまう。
宇宙は意識界であり、想ったことが顕れる世界である。良いことも悪いことも顕れる世界。
下げてしまった波動のことをカルマと云い、このカルマの刈り取りは自分で下げてしまったものは自分で上げ上げる為の意味である。神様、助けて下さいと叫んでも助けることはできない。自分の意識の問題だから、他人が肩代わりはできないのである。
我は霊であり、姿、形の現象ではない。宇宙には神一元であり、宇宙そのものが神である。
すべて神の中に住んでいる神である。髪の毛一本、すべてが神であるということである。
神は特別な存在ではなく、すべてのすべてありてあるものである。仏も1つなる生命体を顕す意味である。1つしかないのであるから。神、仏という呼び名の他に波動、バイブレーション(バイブル)生命、大霊、霊光、大気、空と様々な云い方で見えない法則を顕している。

 

2023年11月27日月曜日

原因は神 現象は人間


原因は神 結果は人間

宇宙で太陽系惑星の地球に現象化している人間が本当の我を知らず、我物顔で地球を荒しまわっている。宇宙はバランスで生命活動をしている。
地上界に現象している人間は実在していないことに気づかず、自分が一番偉いと思い込み、この消え行く世界に君臨しているが、現象であるため、消えてしまう存在なのである。
本来の我は永遠なる生命体であり、この世に本来は現象化することはない。
この世に現象化された人間の中に蒔かれた神の種が我であり、この神の種を発芽させ、華を咲かせ、本来の我に帰って行くための現象界なのである。本来の我は愛なのである。
この現象を実在と見てしまうと現象に囚われ、自縛し、愛のバランスから離れてしまう。
この果相界で人間は生命エネルギーを無所得でこの地上界に愛を放射させる為の世界である。
その為に造られ,自由意志を持った人間という神の道具なのである。人間は神の道具であり、実在はしていないのである。実在しているのは人間を顕して居る生命、神なのである。
神様が別にいるのではないのです。生命が神であり、神は我が中に実在している。生命が肉体を顕している。神を外に求めると使われるものになりバランスを失う。神である自分が奴隷になってしまう。これがモーゼの十戒である。あの映画は自分の邪な心のことを奴隷と云っているのである。自分で自分を奴隷にしている。現象に生きることが奴隷の生活なのである。
神なる我、神我が我である。宇宙は1つなる生命だけが実在している。すべてが神なのである。







 

2023年11月26日日曜日

現象はバランスで現象化している


現象はバランスで現象化している

宇宙は中性なる生命エネルギー体である。
生命エネルギーは中性である。愛のエネルギーである。この絶対バランンスが宇宙生命体の本源本質である。これがすべてのすべてありてあるものである。人類1人、1人がこの現象の正体を知り、善悪の木の実を食べて波動を下げてしまった事実を理解し、自分で下げた波動は自分で上げなければならない。モノなら上げることはできるが、意識の問題は自分で直さねければならない。自己責任である。
争いは分離感から起きるため、1人、1人がこれに気づくことで争いはなくなる。分離感の中には争いはあるが、1つの中には争いはないのである。
1つの生命を分離感を持ってしまった意識を1つ目の意識に戻すことで、この現象界がら抜け出し、華を咲かせることで、人間界には生まれてはこなくなる。
今、人間が現象化しているということはまだ物質意識であり、波動が低いということで戻されたということである。アンバランスであるということである。物質を意識すればするほど重たくなり、空には戻れないということである。


 

2023年11月25日土曜日

人間は現象であるが故 消え行く存在なのである


人間は現象であるが故 消え行く存在なのである

人間は実在していると勘違いをしている。
人間は見えない生命の現象、働く場なのである。
現象は人間は造ったのではなく、生命によって造られている。造られたものだど知らず、自分と思って生きている。見えるものは見えない生命によって造られていることに知らない。
宇宙は1つなる生命のみが独存する。1つなる生命によって万象万物が現象化している。
原因、結果の法則である。人間というのは形に名前を付けただけである。人間は最初から存在はしていない。形に名前を付けただけなのである。動物、植物の名前も同じである。
見えるものはすべて現象である。現象は消えて行く存在なのです。実在するものは消えることはない。人間という名の現象をこれを自分と思い違いをして現象の消えるものに囚われてしまっている。一番大きいのは生老病死である。人間が生きていると思うからこの四苦に悩まされてしまう。この生老病死からの迷いから解放するには今の人間意識から波動を上げることで解放させることができる。意識の切り替えで可能である。
イエス様、お釈迦様はこの事を伝える為に現象界に降りて来られた。残念ながら、これを伝えるものが現れなかった。宇宙は1つなる生命体であり、善のみの世界、善悪の分離感の世界ではない。善悪は人間の果相が造り出す迷妄であることに気づかなければならない。
1人、1人は神の子であり、宇宙そのものは神なのです。神は外には居ないのである。
神は自分の中にいるのです。騙されないで下さい。私はあなたのお母さんですよとオオカミに騙されてはなりません。


 

すべてのすべては神である


すべてのすべては神である

すべてのすべては神である。1つなる生命、神である。神のみが実在している。これが大宇宙である。
大宇宙の中にある小宇宙も神である。髪の毛1本も、神である。すべてのすべてありてあるものは神である。宇宙生命である。
人類も様々な人種がいるがすべて神の顕れなのである。人間は存在しないのである。
人類は現象面だけを見てしまう為、分離感を起こし、1つの生命からすべての現象が起きている同じものに優劣をつけている。現象だけを見て分離感を持つものは本来の我に戻ることはできない。大統領であり、首相であり地獄から這い上がることはできない。
イエスが云われるように「この世で富めるものはラクダが針の穴を通るが如し」ということになる。
すべては1つであることを理解した時、人間という現象から離脱する自由意志が与えられている。
この世で幾ら財を残しても死んでは持って行けない。現象で使う道具なのである。道具はすべて霊であり、大切に貯めようとしているお金も霊なのである。
この世で富めるものはラクダが針の穴を通るが如しとキリストが云われている。
本来の我は気体であり、固体波動では天国の気体波動には重すぎて戻れない。
この現象界で気体波動を上げて行く。日常の身口意において実感して行く。



 

人間は生命の現象であり。果相である

 

人間は生命の現象であり。果相である

宇宙は永遠なる1つなる生命体であり、この中で万象万物は生命の働く場として顕れている。すべては1つの生命体である。
何故、1つの生命の中で現象に生きてはならないのか?
現象は消え行く存在であり、現象を造っている本源本質は永遠なる生命である。現象に生きてしまうと消え行くものに生きることになる。
本来の我は現象界に無限大の生命エネルギーを受けて流す使命を持って現象化しているのである。この現象界で生きるということは本来の使命を果たさないで、放蕩息子のように生きるようなものである。生命の自覚を持って現象界に生命エネルギーを放射させる。神と1体となり、放射させる。このために人間という姿、形の中に神の種、光の種が蒔かれている。
与えられている自由意志を間違って使ってしまっている。人間は生命の働く宮である。神の宮である。どのように使おうと自由意志を犯すことはできないのである。



2023年11月24日金曜日

生命と現象


生命と現象

生命と現象は原因、結果の法則である。見えるものは必ずそれを顕わすものが存在する。
現象が存在しているが、これは実在しない果相であり、幻、幻想である。
現象が何ぜあるのかというと生命が無限大の生命を現象を通して流す為に現象が一時的に顕れているに過ぎない。生命の循環である。
人間は万物の霊長である。現象化しているものは物質ではなく、霊が形を止っているだけである。人間を霊が止まると書く。(霊止でヒトと読ませる)
宇宙は1つなる生命体が実在している。これ以外何もない。生命と現象は2つで1つなのである。
現象に生きる人間は見える現象だけを見る為、幻想の生老病死の四苦に憑りつかれる。
今の宗教家はこの四苦を少しでも少なくしようと頑張っている。悩み相談所になっている。
イエスが云われるように肉に生きるは死と云われている。現象に生き、死ぬものはまた生まれ、何度でも再生させられると。


 

肉体は心の表現体


肉体は心の表現体

見えるものには必ず中心がある。これが中なる心である。心はエネルギーであり、中心力であり、力、エネルギーは外ではなく、内にある。
この内なるエネルギーを外に顕現するだけである。
この神の表現媒体を殆どの人間が自分と思い違いをしてしまっている。内なる中心なる力、知恵を外に顕現する神の道具を勝手に使っている。
この道具には使い方があり、その通りの使わなければ、壊れてしまう。
内なるものと外なるものをバランスによって使わなければならない。バランスとは1つで使わなければならない。1つとして使うことで内なる生命エネルギーが外に顕現することができる。
この表現媒体が主導権を持ってしまうと分離感を起こし、現象を認める為、生老病死の四苦を持ち込み、囚われ、アンバランスを起こし、生命エネルギーを遮断することになり、バランスを失い、肉体が不調和を起こし、死に至る。
キリストが云われるように肉に生きるは死であると。

 

神を外に求めるなかれ、汝の神は汝自身なり


神を外に求めるなかれ、汝の神は汝自身なり

神とは何ぞやである。神とは宇宙生命体であり、宇宙生命体により、万象万物が創造されている。
万象万物は神の被造物である。宇宙には神一元、神によって人間も造られている。造り主は別にいるのではなく、造られたものの中に宿っている。
原因、結果の法則であり、原因である生命が形態に宿り、生命活動をしているから形態が保持されている。原因が生命なら結果も生命なのである。原因が神なら結果もは同じ神なのである。
宇宙は1つなる生命であり、生命は神であり、仏であり、神、仏によって造られた被造物の中に神、仏が宿らなければ形態を顕すことはできないのである。神様、仏様が別にいる訳ではないのです。人間はこ゚の生命が見えない為に神、仏を外に求めてしまったのです。
生命が内に宿っていなければ姿、形が顕れることはないのである。
神、仏とは生命エネルギーのことである。
人間が死ぬ時、魂が抜けたという云い方をするが魂とは生命エネルギーのことである。
生命エネルギーが肉体から引いただけなのです。生命は死ぬことはない、普遍不動であり、永遠である。生命は宇宙生命、愛の法則、愛光である。



 

大宇宙は小宇宙 小宇宙は大宇宙


大宇宙は小宇宙 小宇宙は大宇宙

大宇宙の中に小宇宙は存在する。小宇宙と大宇宙は同じもの。相似形である。
同じ生命体である。大宇宙は1つなる生命体であり、中性なる生命体である。人間という生命体も宇宙の生命体の一部であり、全体である。
人間というのは小宇宙の細胞体であり、1つなる法則によって創造されている。
生命は1つであり、小宇宙の人間も大宇宙の中の同じ生命体である。
生命が万象万物を顕している。人間も生命によって顕れた現象である。姿、形の現象は消えても形態質料は消えることはない。生命は普遍不動の宇宙生命は消えることはない。永遠である。我も永遠なる無限生命なのである。この1つなる生命以外、宇宙には存在していないのであるから。我は宇宙生命の一部でありながら、宇宙生命そのものであった。


 

人間はこの世で何をすべきなのか


人間はこの世で何をすべきなのか

宇宙は1つなる生命体である。この宇宙に人間は存在するのだろうか?。1つなる無限生命の中に現象は存在しないのである。存在するということは実在するということである。永遠ということである。宇宙に実在するのは1つなる無形無双の生命体だけが実在するだけである。
宇宙は物質界ではないのである。宇宙は霊界なのである。高バイブレーションの世界が霊界なのである。生命エネルギーの見えない世界である。
人間は万物の霊長と云われるようにすべての見えるものは霊なのである。宇宙は1つなる中性なる霊界なのである。
人類は1本の木の葉のように春に芽が出て、冬には落ち葉になって行くようなもので、また次の年には芽を出す。木の葉は常に変化するが、それを創造している木の生命は外相がなければ絶えることはない。縄文杉のように何千年と生命が途絶えることはない。
人間も木の葉でななく、木の葉を創造している生命が我であると。
人間には自由意志が与えられており、使命が与えられている。無限大の生命エネルギーを肉体媒体を使い、地上界に生命エネルギーを受け流す為に現象化している。それで生命の世界に戻って行く。かぐや姫の世界である。



 

キリストと仏陀とは同じ宇宙の真理のこと


キリストと仏陀とは同じ宇宙の真理のこと

宇宙は1つなる生命体。この中の現象は様々な現象を顕しているがすべて1つのことである。2つあることは間違いである。善悪があるということは間違いであるということである。善のみが存在する。
善悪はバイブレーションが低くなることで、質料が見える現象になるため、これに囚われることで善悪の分離感が生じてしまう。
この分離感が人間の波動を下げ、実在しない生老病死の四苦に囚われてしまう。
生老病死は現象界にあって霊界には存在しないのである。霊界は姿、形は存在しないからである。
キリストは宇宙法則のことを愛の法則と云い、仏陀は慈悲という形で中道の法則を説いた。
宇宙は中性なる生命体である。こ゚の生命体が様々な万象万物を化身として顕している。
宇宙の法則が人間を造っている。人間は神の被造物である。
1つなる生命は内に宿っている。外に何かをすることではなく、内にある全知全能の我に向き合う。これが人間として神として生きることである。
この事をキリスト、仏陀は伝えようとしたのです。現象に生きる為の生き方を説いたのではないのです。本来の我は宇宙即我である。本当の我は仮相の人間ではないことを説かれている。キリストも生命のパンということで同じことを説かれている。肉に生きるは死。生命に生きるは永遠と。



 

生命が我であり、肉体は我が宿る器である


生命が我であり、肉体は我が宿る器である

宇宙は中性なる1つなる生命体である。
この生命体は見えない生命体であり、永遠なる微生物である。これが宇宙の本源本質であり。宇宙そのものである。無限生命、普遍生命であり、宇宙に遍満している生命体があるだけである。
生命体は目には見えない。でも実在する。
何故、見えるものには必ず顕すものがある。見えるものだけが存在することはない。
あるということは永遠にあるということである。消えて行くものは現象であり、必ず顕すものが存在する。宇宙は1つなる生命体であるため、1つの中に様々な見えるものが実在することはない。見えるものはそれを顕すものがあるということである。宇宙には1つなる生命が実在する。こ゚の生命が原因なき、原因、宇宙生命、中性なる永遠なる生命体である。
肉体は現象であり、現象を顕す生命が顕している。現象の肉体の中に宿っている我がいるのである。見えない現象に宿っているのが我である。現象を造り、維持しているのが我である。
これを生命、神と呼ぶ。我は神の子であり、肉体は神の器である。
 

2023年11月23日木曜日

人間には自由意志が与えらている


人間には自由意志が与えらている

宇宙には1つなる無形無双の生命のみが実在している。他に実在しているものはない、
この無形無双の生命を神、仏と呼んでいる。
宇宙には生命エネルギー、中性エネルギーのみが実在している。全知全能のエネルギー、知恵が実在している。この無形無双の中性エネルギーが様々な形態を造り、その中で働いている。
見えるものの中には必ず見えない生命を宿している。こ゚の生命が万象万物に宿り、生命活動をしている。
この内なる生命が宿る人間の形態には自由意志が与えられている。人間に生きる自由意志、神に生きる自由意志。その選択権が与えられている。あなたはどちらを選択しますか?
 

宇宙全体が1つの生命体


宇宙全体が1つの生命体

宇宙全体が1つの生命体、中性なる生命体。
我が内なる生命も宇宙の生命体である小宇宙である。大宇宙の中に様々な小宇宙が存在する。
我も太陽系の地球という中に存在する人間という小宇宙である。
すべてに生命が宿り、万象万物を顕している。
人間は神に似せて造られたと云われ、神と一体になることで神の我を顕現する。この自由意志が与えられている。人間は現象に生きることではなく、生命に生きる選択権を与えられている。この世に現象する時に命名として命の名を付けて生まれて来ている。生命に生きる為にこの現象界に降ろされているのである。



 

すべて御業は神が行なっている


すべての御業は神が行なっている

宇宙は1つなる生命であり、神以外、何も存在しない。生命はエネルギーであり、知恵である。
生命が顕す媒体として生命が自ら器を作っている。この器を自分と勘違いをしているだけである。
すべてのエネルギーは内から外へ流れる。これが法則である。外から内へは流れることはない。エネルギーは高い方から低い方に流れる。
見えるものは内なる生命が形態を顕している。外なる見えるものがあるのではなく、内なる見えない生命が外なるものを顕しているのである。
すべては内なる生命によって現象が顕れている。内なる生命エネルギーを引き出して行くだけである。外からの知識は自分が自分の井戸を掘る為のアドバイスである。
内には全知全能の泉の井戸があり、人類には1人、1人の中に全知全能を汲み出す井戸があるのである。1人、1人がこの神の井戸を掘って行くだけである。神の御業は自らの中にあるのである。私の力、知恵はない。この姿、形は神によって造られた神の全知全能の力、知恵を放射する為の神の道具なのである。私という存在はないのである。神の道具を自分と錯覚し、自分が行なっていると思っているだけである。
神のみが、生命のみが存在するのである。



現象はバイブレーションの変化


現象はバイブレーションの変化

見える現象は低バイブレーションの為に起きる現象である。現象をあると信じるとその波動になってしまう。想っている波動に同調されてしまう。
その波動を認めるとその波動になってしまう。
この現象は高波動の生命波動が現象化しているのである。造り主は高波動、造られたものは低波動、低波動が故に現象化しているのである。高波動であれば現象化することはないのである。
宇宙の万象万物は高バイブレーションなる波動が万象万物を造っている。
現象だけを見て現象があると思う心が現象の波動同調し、これに囚われ、自分で自分を縛ってしまう。
本来の我は空の高波動なのである。本来の我は現象の低波動の見えるものではない。内なる高波動の空が我である。

 

2023年11月22日水曜日

現象というサタン


現象というサタン

サタンが別におり、サタンに憑りつかれることではない。サタンは存在しない。自分が創り出す迷妄なのである。この世は霊界であり、意識の世界である。意識によって生み出すことのできる世界である。
良いことを想えば良いことが顕れる。悪いことを想えば悪いことが顕れる世界である。
サタンに囚われるのは見える現象をあると思う心が造り出す。現象の動く形があると信じることで、自分が創り出す迷妄なのである。この現象は神の働く場であり、神の器なのである。
動くが故、あると信じ、これに囚われてしまう。これがサタンである。
サタンは自分自身の心が造り出す。現象は生命が外なる現象を通して生命活動をしているだけなのである。
これは外なる現象を見てあると信じる心が波動を下げてしまったために起きる現象である。
外なるものは内なる生命の顕す場である、我は内なる生命が我であって外なる姿、形が我ではないのである。外なる姿、形が自分と思ってしまうとこれに囚われ自縛しててしまう。
サタンはいないのである。
生老病死も現象なのである。あるのは永遠なる生命のみが実在している。
 

全体から見るのか?部分から見るのか?


 全体から見るのか?部分から見るのか?

宇宙は全体で1つであり、その中に小我の我が存在する。小我の我は全我の我によって造られ小我の中に全我が宿っている。
全我が小我を造っているのなら小我は全我であり、全我は小我である。すべては全我の中の顕れである。我は全我であり。小我である。
すべては1つなる生命の化身が小我なる中に宿る全我なる我である。
この小我である現象を自分と見てしまうと内なる生命を見失うことになる。
小我は全我の顕れである。全我が小我を顕している。
小我の部分的な衣装を自分と見てしまうと現象に流されてしまう。内なる全我なる生命からものを見る。


内は天 外は地


内は天 外は地

天が我を造り、我の形態の中に天が宿り、天が現象肉体を顕し、働いている。
内は天、外は地であり、内と外は1つである。
天地一体である。
内は高波動で見えないもの、外は低波動で見えるもの。内なるものが外なるものを顕している。

外だけの見えるものだけが存在することはない、内なくして外はない。内なるものが外なるものを顕している。内なくして外はない。
内は愛なり 外も愛なりである。愛により現象化している。
宇宙は愛の法則によって現象化し、現象という形を通して生命を顕している。
大宇宙は小宇宙であり、小宇宙は大宇宙である。1つなる法則、完全バランスが生命であり、宇宙は永遠なる完全なる生命活動をしている。
 

無限生命 普遍生命


無限生命 普遍生命

すべては1つであり、区切りがない1つの生命体である。
宇宙は1つ。宇宙は1つなる生命であり。天の中に島宇宙があり、島宇宙の中に銀河系宇宙があり、銀河系宇宙の中に太陽系宇宙があり、太陽系宇宙のなかに地球があり、その中に人間という現象体がが存在している。この生命体は1つの宇宙生命体であるということである。1つの生命体の中に様々な形態が顕わてている。これらの現象を顕しているものはすべて1つなる生命であるということになる。
この無限大の生命体の中に万象万物が現象化している。1つの大生命の中に顕れている。宇宙生命が本体であり、その中に様々な形の衣装をつけた生命の化身が顕れている。
宇宙には1つなる生命が多神を顕している。見えるものがあるのではなく、見えない生命が見えるものを顕している。見えない生命は見える衣装を着けているだけである。
宇宙は愛の生命体、中性なる生命体、無限なる生命体、普遍なる生命体。見えない1つなる生命体が実在しているだけである。これを神、仏と呼んでいる。すべては1つ。すべてが神、仏なら、我も神、仏ということになる。すべては1つの宇宙生命体が実在しているだけである。
人間も見えない宇宙生命体が形を止っているだけなのである。

 

生命とは


生命とは

宇宙生命とは生命エネルギーのことであり、すべてはエネルギーのことである。この生命エネルギーが様々な形態を造り。その中に表裏一体で宿って形態を動かしている。
聖書に書かれているように
「すべてのすべてありてあるもの」が神、生命エネルギーである。こ゚の生命エネルギー、中性エネルギーのことを生命、神、仏という名で呼んでいる。宇宙そのものが神、仏なのである。
すべてエネルギー
固体エネルギーは固体はエネルギーであると。液体エネルギー、気体エネルギー。万象万物は生命エネルギーが形を止ったものである。すべては1つの生命エネルギーの化身である。
1つの中には分離するものはない。争いも対立もない。対立があるというのは分離感でものを見ていることになる。戦争を起こしているということは神への反逆行為であると云わざるを得ません。

神への反逆とは自分への反逆である。神なる我が反逆を起こすということは完全なる自分を不完全にしてしまうため、波動を上げることができず、本来の高波動の我に戻るまで再生されてしまう。この現象界で本当の自分に気づき、生命の我に気づく。その為の現象界である。
完全なる生命に対してアンバランスにすることは反逆行為であり、自分で犯した罪は自分で報わなければならない。自己責任である。自分で直さなければならない。誰も手を貸すことはできない。心の問題だからである。罪とは人間同士の罪ではない。神との契約違反のことであり、自分自身だからなのである。自分の悔い改めなのである。自分で犯した罪は自分で償う。神である我が、人間として生きた罪は自分で償う。
肉に生きるは死。生命に生きるは永遠。

 

天地一体とは


天地一体とは

天は生命、地は現象。天地一体。1つのものである。見えないものが見えるものを顕している。顕すものがなければ顕れることはない。
宇宙は1つなる生命体であり、生命とは絶対バランスであり、愛の法則である。見えないものもバランス。見えるものもバランス。すべてはバランス。1つなる生命は永遠なる完全バランス。永遠なるバランスの中に万象万物が現象化している。現象は完全バランスが故、現象を顕している。完全の中に居るのだから、すべては完全である。完全の中に有限は存在しないのである。すべては1つである。様々な形態があるということは現象であり、消えれば元の状態に戻る。故に見えるものは有限なのかと納得できる。
別々にあるということは1つの生命ではなくなる。永遠とは永遠に無くならないものを指す。有限な消え行く現象界には本物はないということである。
本物というのは永遠に消えることのないものを指す。現象の中には1つとして消えないものはない。現象は消えないものによって現象化している。現象から現象を造ることはできない。
故に天地一体であり。実在しているのは天のみが独存している。生命のみが独存している。
現象があると思うことは天地二体になるというこである。この世に自分という姿、形は存在しない。生命の顕す媒体があるだけである。




人間という枠


人間という枠

宇宙は1つなる生命体であり、1つの中に区切りは存在しない。普遍である。普遍の中に見えるのはバイブレーションの低い方から見るから見えないだけで高バイブレーションの方から見れば見える。自分の立ち位置で見えるものが違ってくる。

会社であれば。社長の見る位置、部長の見る位置、平社員の見る位置、自分の立つ位置ポジションによって見えるものが変わる。社長は会社全体が見得るが、平社員は目先の仕事しか見えない。社長は平社員との誓いは意識の違いである。最初から企業をする人は意識の違いである。意識の持ち方で即、社長にもなれるし、平社員にもなれる。意識次第で何にでもなれる。
内なる思いが具現してくる。「想念は実現の母」である。
人間は意識の持ち方で自由に物事を具現することができる。人間は神の化身を神によって造られている。神の想念によって全知全能の知恵、力を引き出す。その為に造られた神の被造物なのである。
神と被造物は2つで1つである。顕すものがなければ神は表現することはできない。
人間は神の働く道具であり。働く器である。すべて神のもの。見えるものは神の顕現道具であり、人間は神によって造られた神の道具を自分と勘違いをしているだけなのである。人間は形の名前で存在していないのである。勝手に人間と思っているに過ぎない。
人間と思っていることは神への反逆行為なのである。
本来の我は観自在、無碍自在の自由なる空である。人間という枠を外さないと元の自分に戻ることはできない。すべては意識の状態である。今、何を意識しているかが今の自分の位置ポジションである。それ以上、以下でもない。その意識の状態が天国か地獄かを決めているだけである。この現象界は地獄ということになる。自分も人間という枠に自らを閉じ込めているのであるが。





 

2023年11月21日火曜日

2つの分離感


2つの分離感

分離感とは1つのものを2つに分けて見てしまうことである。宇宙は1つなる生命であり、1つである。
見えるものは見えないものの顕れなのであるが、見えないものが見えるものを顕していることに気づかず、見えるものだけを見てしまう。
宇宙は物質界ではなく、霊界である。霊界の中には分離はないのである。故に無限生命、普遍生命と呼ばれている。
人間も霊体なのである。万物の霊長と呼ばれている。
分離感を持ってしまうとどのようになってしまうかというと見えるものは現象であり、消えて行くものがあると思ってしまうことで、自己保存の法則が働き、対立、争いが起きてしまう。
消えて行く現象の中で争いを起こしても霊は無くなることはないが、顕しているものと顕されているものは1つなのです。2つで1つなのです。顕しているものがあるのであって、現象は同じ顕す媒体である。媒体は消えて行く存在なのである。外から見るから現象があると思ってしまう。これが見えるものだけをみる分離感。

もう1つの分離感は霊だけがあって見えるものはないのだから見てはいけないという分離感。
見えるものと見えないものは2つで1セットなのである。
見えるものは見えないものの顕れであり、2つの分離感も外から見るから起きてしまう。内から見れば分離感はなくなる。1つのものを内から見るのか、外から見るのかである。
八正道の正しく見るというのは内から見るということである。




 

2023年11月20日月曜日

人間の形態何ぜ存在するのか


人間の形態何ぜ存在するのか

大宇宙と小宇宙は相似形であり、同じ法則で成り立っている。
水蒸気が水になり氷に変化するようにすべて1つであり、同じものである。色心不二である。
バイブレーションの違いで様々な分子構造が造られ、様々な形態が造られ、現象化している。
原点は気の世界、生命の高バイブレーションがバイブレーションの変化の中で様々な形態の分子構造を造り、生命が分子構造に宿り、生命活動をしている。
すべての現象は生命波動によって顕されている。宇宙は1つなる中性なる高波動の世界。
波動によって人間の姿、形が現象化されている。形態を通して生命エネルギーが生きているのである。
人間という形態は神に似せて造られていると云われているのは自由意志が与えられているということである。この自由意志の放射媒体を自分と錯覚し、人間という現象形態に生きてしまっている。本来の使命は生命エネルギーを放射する為に造られた神の器なのである。
消え行く仮相世界で豊かに生きる為に生命が人間を顕しているのではないのである。
人間は万物の霊長であり、万物は霊なのである。
やるべきことをしなければならない。万物の霊長としての使命を果たさなければならない。
仮相界で成すべきことは生命エネルギーを霊の使命として波動の低い地上界に降ろすことである。 我々は人間の形をした霊なのである。形に生きると現象界に自縛してしまうのである。



2023年11月19日日曜日

人間は生命の働く道具


人間は生命の働く道具

宇宙は1つなる無形無双の見えない世界。
1つなる生命の中に有限なるものは存在しない。
形の世界は存在しないということになる。

従って人間という存在はないということになる。
万象万物も皆、現象であって実在はしない。
万象万物は1つなる生命を顕す表現媒体として、道具として存在して存在している。
生命と表現道具は一体である。1つである。
この見えるものだけをあると信じてしまうと、分離感になり、争い、対立が生じてしまう。
変化して止まない現象は生命の働く場であり、生命を一時的に顕す消え行く道具である。
この消え行く生命の道具を自分と錯覚してしまう。顕す生命は永遠であるが、人間という仮相の道具は生命によって一時的に生命エネルギーを顕現する為の道具なのである。
この仮相という人間という道具に生きてしまうと自縛してしまう。また再生され、本来の生命に戻るまで再生される。



 

2023年11月18日土曜日

生命は媒体を通して顕れる

 


生命は媒体を通して顕れる

宇宙は霊質料と霊エネルギーの世界である。これが宇宙の本源本質である。この絶対バランスが生命であり、宇宙は中性なる生命体である。中性なる生命が全知全能の力、知恵、創造の原理である。
生命は見えない。見えない生命は何かの媒体を使うことで顕すことができる。
現象界は生命の顕われた世界。現象は生命の表現媒体。
現象は生命の表現する為の媒体であり、生命と現象は1つのものである。見えるものは見えない生命の顕われ。生命そのものである。生命が形を止ったもので、生命そのものである。
生命の表現媒体である。生命を顕す表現道具である。見えるものは生命の表現道具であり、表現道具がなければ生命を顕すことができないのである。生命と表現道具は2つで1つである。表現道具は生命がなければ存在しないのである。表現道具があるということは生命がその中に存在しているということである。姿、形があるということは生命が宿っているということである。
この見える道具が曲者なのである。99,99%、この姿、形だけを信じ、見えない生命の表現媒体であることを信じない。我は顕している生命である事を信じない。姿、形を自分と思い違いをしてしまい、仮相の現象に生き、生老病死の四苦に囚われ、対立、争いの世界を生きている。死ぬ時、魂が抜けたと云いながら、肉体の我を信じている。疑わず、実在しない仮相の世界に生きている。



宇宙そのものが神、仏である


宇宙そのものが神、仏である

宇宙は1つなる愛の法則の無形無双の生命体である。
この無形無双の生命が全知全能の力、知恵であり、創造の原理である。
神様、仏様というと見えないが故に特別な存在であり、仏像のような形があるように云われてきていたが、それがそのような存在ではないことに気づかされた。今まで思って来た神、仏とは何だったのか?
宇宙そのものが神、仏、法則が神、仏であれば、神、仏を祀ることはないではないか?
今まで宗教に脅かされ、騙されてきていたのかと思うとゾッとする。
その分離感の為、争い、対立を起こし、同じ生命のなかで争いを起こして来ていた。
それを利用されてきた。赤ずきんちゃんだったのである。
戦争は宗教が起こしている。何の為の宗教なのかである。
でもこの世は仮相界であり、目くじらを立てる必要はないのである。宇宙は霊界であり、現象が消えてもなくなることではない世界である。仮相の世界で色々な経験を積み、生きている内に空に戻る為の世界である。
完全なる神、仏の世界の中で、形をある低波動の世界の中で、永遠なる生命が我であることに目覚める為の仮の宿。この低バイブレーションの見える世界から見えない高バイブレーションの空に戻って行くための現象界なのである。この世の一時的な仮相界で幾ら幸せになっても空の本当の永遠なる実相の世界、永遠の世界には戻れないからである。



 

見えるものには、必ず顕しているものがある


見えるものには、必ず顕しているものがある

無から有は顕れることはない。顕れているものには必ず、顕しすものが存在している。
宇宙は1つなる生命体。1つであれば顕れすことはできないのではないか?それは細胞体であるから見えない細胞が集合化して見えている。
顕すものがあまりにも小さい為、見えないだけである。原因、結果の法則である。見えるものと見えないものは2つで1つである。
人類は原因、結果の法則を理解すれば、争いはしない。見えるものだけを見るため、分離感を持ち対立、争いを起こす。
実在しているのは見えない生命、この宇宙の本源本質がすべての現象に宿り、現象化している。現象は実在していないが見える存在。実在している生命は見えない存在であるが、永遠なる現象化させている本源本質。見えない本源本質が現象を顕している。
私もこの現象界に存在しているということはまだ悟れず、また現象界に戻されたということである。落第生であるということである。


 

2023年11月17日金曜日

人間は実在してはいない


人間は実在してはいない

宇宙は無形無双の見えない生命体。この1つなる生命体のみが実在している。其処には姿、形は存在しない。あるのは見えない無形無双の空の世界。
形のない世界。その中には形は存在しない。人間は存在しない.万象万物も存在しない。その空の世界、生命界の宇宙。
人間は生命によって現象化されている。現象化されているものを見て生きている現象界。その見える現象の中で生きている者には見えるものを顕している見えない生命の世界を理解することをすることはできない状態である。
この見えるものを顕している見えない世界を理解するにはアドバイスがなければ理解は不可能に近い。そのように云われればなるほどと理解することができる。
水蒸気が水になり氷になることは当り前に思っていたが、水蒸気が本当の我であることを気づくことを考えても見なかった。宇宙は波動の世界であったのである。
見えない世界、生命の世界は高波動世界。それが神、仏の世界であった。現象化している低波動の人間形態はは高波動の見えないものが形態に宿り、現象として生命が顕している。すべては1つの世界。高波動の空の世界が現象として顕れている。故に低波動で高波動を見ようとしても見えない。我の波動を上げて行くことで実感して行くしかない。
悟りとは低バイブレーションの意識から高バイブレーションの意識に上げて行くことである。


 

神という自覚


神という自覚

宇宙は1つ目である。すべては生命。生命とは陰陽の法則。宇宙には沢山の法則は存在しない。1つの法則しか存在しない。生命は1つなる生命の法則であり、これを神、仏と呼んでいる。神、仏は遠く彼方に居るのではなく、1つなる法則の中に万象万物が現象化している。すべて神、仏という法則の中に人間という姿、形の生命の現象が顕れている。形は現象なので存在はしない。消え行く、変化する質料である。姿、形は宇宙の塵、水様質料で造られる。質料形態は生命が宿り、生きているように見えているだけで、質料形態は生命のエネルギーによって動かされているに過ぎない。
生命は見ることができない。これは実感し、自覚して行かなければならない。現象からは見ることはできない。自覚して行かなければならない。生命の世界は不立文字の世界、神の世界、仏の世界、霊界の世界である。高バイブレーションの為、見えない世界である。
見えるものは低バイブレーション、バイブレーションを上げて行けば見えないものになる。
神、仏が遠く彼方に居るのではなく、同じ世界にいるのである。三位一体の世界なのである。

 

これから神、仏になるのではない


これから神、仏になるのではない

宇宙は原因なき、原因。宇宙はそのままにして原因、神、仏である。人間、万象万物そのままにして神、仏なのである。
初めから一人、一人は神、仏の中にいる神、仏である。神、仏を人格的な存在と見てしまうと紐解けなくなる。神、仏とは宇宙法則のことであり、中性である。これを愛とか慈悲と云っている。仏様を飾って手を合わせることではない。
宇宙そのものが法則そのものであり、神、仏である。偶像崇拝とは神、仏は姿、形だけではなく、現象を見て起こる心、不安、悩み、外を見る意識が偶像になる。
生命、神、仏が様々な形態を現象化させている。見えるものは神の化身である。現象は顕れた像であり、変化してしまう生命の化身である。現象に神が宿り、顕している。顕しているものは実在あって、顕されているものは内なる生命を顕す為の器であり、生命を顕す為の一時的な現象であり、消え行くものである。見えるものは実在の仮相である。

2023年11月16日木曜日

宇宙は1つなる真理、空であり 神である


宇宙は1つなる真理、空であり 神である

宇宙は1つなる生命体、久遠の生命体、原因なき、原因、内は天、外は地、すべては天地一体。
1つなる生命体が宇宙である。
すべての現象は1つなる生命体が顕している。
現象があるのではなく、生命が実在している。現象は生命が形を止ったもの。
現象から見てしまうと見えるものがあると見えてしまう。生命から見ると生命の顕われと見える。造り主から見るのか?造られたものから見るのかで違って見えてしまう。
またすべては1つだからと言って現象は見ないで、原因だけしか見ないものも出てくる。
原因から見るのか?結果から見るのかによって生きるものになるか?死ぬものになるかが判断されてしまう。
真理は1つであり、見えるものも見えないものも同じ1つのものである。
天地一体、色心不二の1つなる生命体である。宇宙は1つなる生命の真理が実在しているのみである。バイブレーションの変化で生命が見える現象として顕れているだけである。
この見えない陰陽の法則のことを神、仏、天照大神と名付けているだけに過ぎない。
神、仏様がいる訳ではない。宇宙そのものが、神であり、仏なのである


 

想念力


想念力

「想念は実現の母」意識したものが現象化されてくる。見えるものは想念によって具現されてくる。
宇宙は1つなる創造の原理であり、想念によって宇宙の力、知恵、全知全能の力が顕わててくる。

良いことを想えば良いことが顕れ、悪いことを想えば悪いことが顕れてくる。意識のかけ方で様々な現象が顕れてくる。この1つなる愛の法則によって宇宙は成り立っている。宇宙は中性であり、創造の原理であり、全知全能の力、知恵である。
大宇宙は小宇宙であり、小宇宙は大宇宙である。大宇宙の原理と小宇宙の原理は1つである。
生命原理は1つなのである。これを真理と呼んでいる。
大宇宙を理解するには小宇宙を理解することで可能であるということになる。
現象界で想念力を理解することは簡単にできる。何処に行きたい、何かをしたいという想念が、現象化されてくる。夢を持つことで夢を叶えることができる。これは想念力である。
小宇宙の法則は大宇宙の法則でもある。自分を知ることで、宇宙が理解できる。

 

2023年11月15日水曜日

原因は裡にあり


原因は裡にあり

万象万物、見えるものは現象である、無形無双の生命の結果として生命が宿り、現象として顕している。
宇宙は無形無双の生命、神が本源本質であり、この本源本質が様々な波動環境において形態を造り、生命活動をしている。
無形無双の原因は見えない生命は見える質料媒体を自ら造り、媒体を通して働いている。
見えるものが生きているように見えるが、実際は見えない生命が見える質料を通して顕れている。知恵、力は生命の御業である。
宇宙は1つなる生命体、1つなる生命の中に見えるものと見えないものは存在しない。
1つの中において2つは存在しないことは小学生でも判ることである。大人は難しく考えてしまう。
すべての真理は1つであり、1つの真理から紐解くとすべてが紐解ける。
原因は1つ、結果は1つの顕われ、見えるものは現象であり、1つのものが顕していることが理解できる。無限生命、不変生命真理から紐解くことですべてが紐解けてくる。

 

神と現象


神と現象

宇宙は1つなる神のみが独存する。
万象万物は1つなる神の現象である。現象は神の化身であり、2つで1つである。色心不二である。
神によって造られた被造物に囚われるとバランスを失う為、生老病死の四苦に惑わされてしまう。
常に中心バランスを失わわずに生きなければならない。現象は内なる中心生命によって形態が維持されている。中心バランスを失うと現象の変化して止まない生老病死の四苦に持て遊ばれてしまう。
もし、持て遊ばれていると気づいた時。中心なる神を意識することで、現象が過ぎ去ることを確認して見る。
中心なる神は全知全能であり、この内なる全知全能の我を意識して行くことで、本当の自分に気づいて行く。肉体現象からの判断から、内なる空からの判断に切り替えて行く。
本当の我、空に気づいて行く。
 

2023年11月10日金曜日

見えるものから見えないものへの切り替え


見えるものから見えないものへの切り替え

真理は1つ。真理は見えない。真理の顕われが現象になる。原因、結果法則である。宇宙の真理である。
この真理が宇宙の永遠なる真理である。生命の真理である。
人類はこの宇宙の真理に背き、神への背任行為をし、天変地異を繰り返して来た。
善悪の木の実というのは神への反逆行為である。人間は神への反逆行為をしながら、神に助けて下さいと物乞いをしてきた。
完全の中で不完全を造り出していることが、善悪の木の実を食べるということである。
宇宙は善のみの神の世界なのである。
原因、結果の法則を結果で結果を顕そうとすると完全バランスをアンバランスにしてしまう。
物質中心のアンバランスの世界を創り出してしまうのである。
原因から結果を導き出せばアンバランスにはならない。自然界は原因、結果の法則に従っている。人間は万物の霊長と云いながら、動植物以下の醜い生き方をしている。
これから天変地異を繰り返さない為にも原因、結果の法則を犯してはならないのである。
原因は見えない。結果は見える現象。結果から結果を出す方法は神への反逆であり、神の中に住むものは絶対に行ってはならない行為である。
 

すべては1つ 真理は1つ


すべては1つ 真理は1つ

宇宙真理は1つ。2つあるということは真理ではない。キリスト教、仏教に幾つの宗派がありますか?
すべてが1つでなければ間違いであるということです。
1つのものから紐解くと迷い道には入ることはない。
宇宙そのものが真理であり、真理は自分自身そのものが真理であることに気づくことである。人間という結果の仮相は真理によって創造されている。創造されたものの中に必ず真理が宿っている。この真理は汝の手より足よりも近い所にあるとキリストも云われている。
宇宙は永遠なる生命体、フリーエネルギー体であり、他からエネルギーを調達することはない。生命エネルギーそのものが真理であり、我である。生命エネルギーを放射させる為にこの肉体媒体を自ら創造している。この肉体は生命エネルギーの道具であり、神の器である。
神は無所得であり、この世で豊かな生活をするために現象化しているのではないのである。
真理に生きるとは生命に生きるということになる。キリストの生命のパンで生きる。
五感ではなく、直感で生きる。
 

神が完全であるが如く そなたたちも完全であれと


神が完全であるが如く そなたたちも完全であれと

宇宙は神であり、神は完全なるもの。人間も完全なるものの中に存在しているのである。
姿、形が現象化しているということは完全なる中に存在している証なのである。
この完全なる中に居るのに現象を見てしまう為、不完全であると思ってしまっている。
現象は神の生命エネルギーを放射する為に造られた神の顕現道具であり、これを自分と錯覚してしまう為、生老病死の四苦に悩まされてしまう。完全とは永遠という意味である。外なる現象の顕現道具は消え行く存在であり、これがあると思う心が自分を苦しめている。
宇宙は完全なる1つなる生命体である。宇宙に死は存在しないのである。不増不減。不生不滅の不変不動の中性なる生命体である。
すべて完璧の中で無形無双の生命が生きているのである。
不完全にしているのは自分自身であることに気づく。すべての真理は1つなのである。
神であり、仏陀であるということである。
お釈迦様はこの世の生老病死は迷妄であることを中道という形で示された。これが弟子たちには理解できなかった。真理は無形無双の生命バイブレーションであり、この真理は知識では理解することはできない。直感啓示で実感するしかないものであるから。

 

水は上から下へ流れる


水は上から下へ流れる

宇宙真理は1つである。1つなる真理が様々な果相現象を顕している。
真理は本源本質である。宇宙の1つなる真理がすべての原点である。天地一体。天が原点であり、地は現象である。天と地は1つである。見えるもの、見えないものは2つで1つである。
原因があって結果があるのであって結果があって原因があることはない。
水は上から下へ流れるのであって下から上には流れることはない。
現象である人間は下から上に水を流そうとするため、法則違反を犯して自らを自縛している。
結果人間が神によって造られた神の表現媒体を使って何かをしようとする。表現媒体は神の全知全能の力、知恵を顕す媒体として造られている。結果人間がこれを逆に使う為、バランスを崩し、自縛してしまっている。
 

創始者は能動原理、2代目は受動原理


創始者は能動原理、2代目は受動原理

キリスト、仏陀は自ら悟りを得たが、弟子たちはキリスト、仏陀を自分自身に求めず、外に求めてしまう。これが創始者の意志を受け継げない理由である。引き継ぐのは見えるものではなく、真理である。真理は1つである。この内在する真理をどうしても外に求めてしまう。「キリストがこのように云っているとか、お釈迦様がこのように云っているとか、経典にこのように書いてあるとか

、外なる知識に頼って真理を知ろうとしてしまう。その為の解釈が異なり、沢山の宗派ができ、私の宗派が一番正しいとなってしまう。真理は1つであり、その真理は自分の内にあることを忘れてしまう。お釈迦様は1人なのに沢山の解釈ができ、様々な仏教ができてくる。
会社でも同じである。すべて1代限りですね。
真理を求める方は自分の中に先生を求めなければ求めることはできない。外なる先生は内なる真理に気づく為のアドバイザーでしかなのである。
すべては自分の中にある。青い鳥である。
汝の神は汝の内にあり。汝の仏は汝の内にあり。
外に真理を求めれば求める程真理から離れて行く。知識は人の為ならずである。
神は外にはいない。汝の内に神はいる。仏は外にはいない。汝の内にいるのである。

 

全知全能の力とは


全知全能の力とは

宇宙は1つの生命体であり、宇宙には人間という存在はないということを認識しなければならない。
人間は宇宙生命の現象であることを先に認めなければならない。
1つの中に神も人間も存在するという考え方、分離感を悔い改めなければならない。
宇宙には全知全能の生命エネルギー、神以外、実在するものはない。これが前提である。
存在とは永遠という意味である。人間は永遠なる存在ですか?消えませんか?
この見えるものから中々離れられない。見えるものは存在しないと言っても実際にあるではないかと言われる。
人間は肉体を自分と思っているため、自分で自分の人生を切り開こうとするが、肉体を通して御業を行っているのは人間ではなく、生命である神なのである。
人間は何1つすることはできない。ピノキオのように生命の操り人形でしかない。
人間は無我の状態でいることで、全知全能の力が知恵が肉体を通して顕れる。
如何に無我の状態でいるかである。
超能力を出す時、脳幹部の思考を停止させる。五感をシャットアウトする。無我になる。
五感からの脱却である。無形無双の生命が、肉体を通して顕している。


 

2023年11月9日木曜日

神は宇宙に遍満する生命エネルギー


神は宇宙に遍満する生命エネルギー

宇宙は1つなる中性なる永遠なる生命エネルギーである。宇宙すべてが神なのである。
宇宙が神であることを知らないものが、偶像を崇拝するのである。
宇宙には姿、形は存在しない。霊の現象、万物の霊が現象化しているだけである。
波動が低い為に現象化しているのであって波動が上がれば見えなくなる。
人類は天地一体の波動の低い地の世界に現象化している。地は地の中に地を生かしている天が内在し、地を生かしていることに気づく。天が地を表現している。地は天を顕す天の宮、天の道具である。地と天は同じもの。天と地が同じものでなければ天地一体にはならない。
見えるものも見えないものも1つであるということになる。
天が我を顕しているのであれば我は天ではないか?
素直に考えれば小学生でもわかる問題である。何故か大人になるとこれが理解できない。
それだけゴミがついてしまったということになる。
 

肉体は神の宮


肉体は神の宮

宇宙は1つなる生命体であり、1つなる生命体が存在、実在しているだけである。この1つなる生命が様々な形態を造り、生命活動をしている。
人間は進化するのではなく、霊的なものが進化するのである。現象が進化するのではない。魂が進化して現象が変化するのである。
霊とは神であり、神が進化することはないが、現象の自我が神に近づくことを進化するというのである。
人間には自由意志が与えられているため、どうしても見えるものに囚われてしまう。
この現象に囚われてしまうと変化して止まない諸行無常の世界の中で生老病死の四苦に縛られてしまう。肉体は生命の働く宮であり、肉体に生きることではない。
水は上から下に流れるように生命の気も上から下に流れるようにすることで、永遠なる生命に
生きることができる。
キリストは肉に生きるは死であると。肉体は神の宮であり、神の働く場であり、神の働く道具である。道具の使い方を間違わないようにしなければならない。

 

永遠なる生命エネルギーの使い方


永遠なる生命エネルギーの使い方

永遠なる生命エネルギーは気体エネルギーであり、気体エネルギーが現象を顕している。見えるものはすべて現象であり、気体の変化したものである。
人間も然り。すべての万象万物は気体エネルギー、生命の現象である。
原因、結果の法則であり、原因である中性エネルギー、神の現象である。すべてありてあるものは神である。神は何処其処にいるのではない。宇宙そのものが神、仏なのである。
全知全能の力、知恵、創造の原理である。
生命エネルギーは現象を通して顕している。原因結果の法則である。これに逆らわないことである。現象である人間は表現する媒体であり、何の力もないのである。
すべて神の御業によって生かされているのである。神は見えない為、人間は自分の力でやっていると勘違いをしているだけである。
生命エネルギーを使うにはすべてを神に全託することである、難行苦行は必要はない。自分は存在しない。無我であることを知ることである。意識の切り替えで行う。


 

五感から直感へ


五感から直感へ

宇宙は1つなる生命体であり、1つなる生命が生命の現象として顕れている。現象に備わっているのが五感であり、現象を処理する為のものである。脳も外なるものに対して使うものである。
1つなる生命は全知全能の力、知恵、創造の原理である。現象は内なる全知全能の力、知恵を顕す媒体。表現媒体として生命により、創造されている。
人間は生命の表現媒体にも関わらず、現象に生きてしまっている。現象は生命を顕す媒体であり、一時的なものである。生命は永遠であるが、表現媒体は消え行く存在である。消える存在であるが、変化するだけで、無くなることはない。
本来の我は霊的存在であり、五感では見ることはできない。直感で感じるしかないのである。
五感から直感への移行しなければ感じることができない。五感から直感へのバージョンアップをする必要がある。低バイブレーションから高バイブレーションへ進化。
人間の内には高バイブレーションに変化させる光の種、神の種が眠っている。こ゚の種に気づくことでバージョンを上げることができる。有限な現象なる我から永遠なる生命の我へ変性させることができる種が眠っている。現象から生命への切り替えツールである。