2023年10月29日日曜日

人間は現象に囚われず生きなさいと云うが本当なの?


人間は現象に囚われず生きなさいと云うが本当なの?

宇宙は1つなる無限生命であり、生命が姿、形を顕している。現象は変化して止まない諸行無常の世界である。ブッダは諸行無常の世界を生きよとは云っていない。たとえ話の裏のある本質のことを云っているのである。現象から見るとブッタは慈悲の心で他人に接しなないという言葉もその裏にあるを云おうとしているのです。

見えない生命、法則のことを仏陀は慈悲という言葉に置き換えているだけなのです。
1つなる宇宙の法則、永遠なる我が本当の自分なのである我。それは中性であり、この現象界はこれを理解し、本当の我に戻る為の仮相界なのである。仮の宿、俗世、浮世なのである。
現象から脱皮する場所なのである。
素直に考えて、決められた時間の中で、人間に生まれ、現象の諸行無常の世界に囚われて生きる為に生まれてきたのですか?諸行無常の世界の中で何を学ぼうとしておりますか?それともお金も儲けですか?


 

2023年10月28日土曜日

空は法則なり


空は法則なり

宇宙は完全なる1つなる生命体であり、万象万物はこの生命によって存在している。現象は仮相であり、生命の化身である。宇宙生命は完全であり、被造物も完全であるから形を顕している。
顕われているものは変化して止まないがそれを顕している生命は完全なのである。
現われているものだけを見てしまうと変化して止まないものをあると思う心が現象、生老病死の四苦に囚われてしまう。宇宙は完全なる永遠なる生命体であり、この完全体の中に不完全は存在しないのである。宇宙で生きているのは生命であり、現象は生きてはいないのである。人間は現象であり、存在していないことを認めないで、現象に囚われないで生きなさいとと仏陀が云っていると思っているが、現象に囚われないで生きよということを云わないで存在しないものに囚われずに生きよと言った方が現象に悩まずに済むではないか?
これが仏教が迷妄から抜け出ない大きなネックである。
仏陀の例え話は宇宙は中性であることを云っているのであって人間を生きよと云っていない。
故に人間の肉体は乗り船と云っているではないか?
宇宙即我とも云っていますね。
宇宙は無限生命であり、人間は生命の放射媒体に過ぎないのである。
人間が生きているのではなく、生命が生きる住処が人間の形をした仏の宮なのである。
生命は法則であり、見えない空である。



 

2023年10月27日金曜日

人間は肉体に生きることではない


人間は肉体に生きることではない

宇宙は1つなる生命体だけが存在している。宇宙生命の中に人間は存在しない。
人間はこの世にお金を稼ぎにきているのではないのです。
やるべき使命があるのです。地球は波動の低い現象界である。生命は何かの媒体がなければ現象化することができない。人間の肉体は霊体であり、エネルギーを放射させる為に造られている。
霊体はバランスによって姿、形を顕している。現象界を生きる為には造られてはいない。
内なる生命を顕す媒体として造られている。宇宙はすべて霊体なのである。
人間は自分で生きていると思っているが、実際には自分では生きてはいないのである。
肉体は内なる自分の働く場であり、働く道具である。
肉体を通して生命エネルギーを放射させる媒体として存在しているのである。
現象を生きようとする為の迷いの道に入ってしまう。

 

生命は現象を通して現れている


 生命は現象を通して現れている

言葉も生命の顕れ

息も生命の顕われ

色も生命の現われ

笑顔も生命の顕われ

雨も生命の顕われ

雲も生命の顕われ

万象万物はすべて生命の顕われ

人間も生命の顕われ

生命は神なり


我は全我なる我


 我は全我なる宇宙生命であり

宇宙生命細胞体の一部であり全体である 




天地一体


天地一体

天は原因、地は現象。
見えるものはすべて天の創造原理によって形態が現象化され、地上界に現象化されている。
天がなければ地の現象は現わすことはできない。
天と地は別々ではない。天が地を顕しているだけなのである。
天が地を顕しているものを現象である人間は自分で生きていると勘違いをしてしまっている。
この分離感が対立、争いを起こしている。
この分離感が迷いの根源である。対処療法で治そうとしても治すことはできない。
この善悪の木の実を食べ続ける限り、対立、争いはなくならない。
この善悪の木の実を食べなければ、対立、争いはなくなる。
お金はかからないのである。意識の切り替えだけが必要なのである。                                                                                                                                                                                                                                                                                         
 

人間はピノキオである


人間はピノキオである

宇宙には原因、結果の法則がある。
見えるものは必ずそれを顕すものが存在している。
万象万物はすべて現象。その現象を顕しているものは宇宙の1つなる生命である。神とも云う。仏とも云う。
この生命によって形態が造られ、現象化している。この生命が形態に宿り、生命稼働をしている。生きているのは見えるものではなく、見えない生命が生きている。
人間も死ぬ時、生命と肉体は分離するが、生きている内は生命によって肉体は動かされている。肉体には何の力はない。ピノキオのように生命によって操られているのである。
生まれる時も死ぬ時も自分では決めることはできない。生命が引く時が死になる。
決定権は生命にある。生命は死ぬことはない。離れるだけである。




 

宇宙の法則


 宇宙法則

宇宙法則は神であり、我である

神は法則である

愛の法則

慈悲の法則

陰陽の法則

すべては1つである

天地一体

色心不二

自他一体

霊肉一体

原因、結果は1つ

見えるもの 見えないものは2つで1つである

見えるものだけを見るから分離感になる

あるのは見えないものがある

1つなる生命が宇宙に実在しているだけである



地獄は自分で造るもの


 地獄は自分が創るもの

実際しない人間の現象を見てあると信じる心が

生老病死の四苦の世界を自ら造る

自分で自分を催眠術にかけている




すべては1つ


 すべては1つ

見えるものは見えないものの現象

見えないものと見えるものは1つである

宇宙は1つなる永遠なる生命体

人間も宇宙の永遠なる生命体の一員

宇宙生命はすべての根源なるものである

対立、争いは1つのものを2つに分けるために起こる

仮相現象を認める時 生老病死が顕れる

1つなら生老病死も争いも起きない


生老病死は実在しない


生老病死は実在しない

宇宙には生老病死は存在しない。生老病死が存在するのは現象界である。幻想界にのみ存在する。
人間は実在しない現象結果であるにも関わらず、見える現象をあると信じてしまっている。
これが迷い道に入ってしまう原因である。
お釈迦様は生老病死の四苦の現象から入った為。仏教はどうしても現象から抜け出しずらい。キリストは天からお説きになられたが、仏陀は地からお説きになられているため、現象に囚われやすくなってしまっている。
キリスト教もイエスを崇めている。仏教も仏陀を崇めているが、誰もがキリストであり、仏陀なのである。皆、偶像崇拝になり、神、仏を外に求めさせられている。
神、仏を外に求めさせられる為に現象から求めるようになる。
原因、結果の法則であり、現象は結果であり、人間は現象、人間を顕しているものが本当の自分なのです。原因は神、仏である。自分の中に神、仏が宿っている。
外に求めるなかれ、汝の神、仏は汝自身なり。
外に神、仏を求める為の生老病死の四苦に囚われてしまうのである。
人類がこれを克服できれば地上天国を造ることができる。爭いのない天国の世界。
外に神、仏を求める為に対立、争いが起きる。宇宙は1つなる善の世界、現象界は分離感の世界。1つのものを善悪の分離にさせたのは人間なのである。

 

死の克服


死の克服

永遠なる宇宙には死は存在しない。死は現象界にあるだけである。
現象も生命の化身であり、見えるものも見えないものもすべて霊であり、物質と思われているものはすべて霊である。幽霊ではない。生命のことを霊と云っているのである。
人間と思っているのは生命の顕現道具を自分と錯覚しているだけなのである。見えるものは現象であってすぐに変化して元に戻ってしまうものを、自分と勘違いをして自分で勘違いをし、自ら自縛しているだけなのである。この現象に囚われ、常に変化して止まない現象にしがみついて仮相の実在しない人間を演じているだけである。
この現象から抜け出すことで、死から解放される。意識の切り替えで行う。
人間は万物の霊長であり、宇宙力を地上界に降ろす使命が与えられている。
仮相界の波動を上げるお役目の為に遣わされているのである。この世で豊かな生活をする為ではないのである。消え行く世界で何をすべきなのか1人、1人が考えなければならないのである。現象界の悩み事相談をいくらやっても意味はないのである。

 

2023年10月25日水曜日

原因 結果の法則

原因 結果の法則

原因は見えない高バイブレーション

結果は見える低バイブレーション

原因が神なら結果も神になる

万象万物はすべて神の化身ということになる

神とは宇宙法則である

 

宇宙は一なる生命体


 宇宙は一なる生命体

宇宙は1つなる生命なる宇宙家族である

髪の毛1本 砂浜の砂1粒

同じ生命家族である


宇宙生命は善のみ


宇宙生命は善のみの生命体

万象万物は宇宙生命の現象

現象をあると思う心が善悪の心を生み出す

1つなる生命のなかに対立、争いは存在しない

人類はこれに気づかなければならない


 

一息が我なり 神なり


 一息は我なり 神なり

一息は原点なる我

一息は一なる生命なり



神の波動ー2


神の波動ー2

宇宙は1つなる波動。高バイブレーション波動である。中性である。これが創造の原理の波動であり、光りである。
この波動が様々な分子構造を持った質料形態に宿り、様々な形、姿、色、音等を現象化させている。
息も自らの心と書く。心臓の鼓動も神の波動を顕している。故に息という字を当てているのであると感じる。心は神である。神心である。
心音は自らの中で神の顕れを感じることの唯一の手段である。
すべては見えない波動が現象化している。常にこの観点から見えないものを感じ取って行く。
原因が結果を顕している。この観点から常に現象を見つめる。
神というイメージが長年、偶像を植え込みされてきたため、少し原因は掘り下げる今まで思っていた謎が解けてくる。
宇宙すべてが神なのに神をまつる社が本当に必要なのだろうか?
すべてが神なら自分も神ではないのか?
素直に考えるとすぐに答えが出てくる。余り現象の中に居ると気づかない。
敢えてそのようにさせられているのではないが?

この謎を解き鍵は誰が儲けているのかと考えると答えが出てくる。

 

2023年10月24日火曜日

現象界での人間の役割り


現象界での人間の役割り

宇宙は1つなる完全生命体である。
完全なる生命体の中で人間が地球のバランスを崩してしまっているのは、現象を見て現象を実在しているとの勘違いから起きている。
なくなるものへの執着から争い、対立が起きる。
現象をあると信じてしまうと生老病死の四苦に囚われてしまう。この世界を仮の宿、俗世、浮世と呼ぶ。本当の世界ではないということになる。
宇宙は完全なる無限生命である。すべてはここから始まっている。完全なるものの中に不完全は存在しないのである。現象は完全なるものの化身であり、見えるものと顕しているものは1つである。これを見えるものだけをあると思う心が分離になってしまう。
顕和しているものは完全であり、完全の化身であり、化身は消え行く存在であるが、完全なる顕しているものは消えることはないのである。
人間は実在しないが内なる神が宿っている。この内なる神に気づき、神のエネルギーを肉体を通して顕現する為に造られている神の道具である。
人間の現象に生きるは死であり、内なる神として生きる、生命として生きる。
人間は現象界から脱皮し、本来の我に戻り、使命を果たさなけれなならない。



心身一体とは


心身一体とは

大宇宙、人間小宇宙は同じ法則で動いている。
宇宙は1つなる生命体、中性である。
人間も中性である。心と肉体は別々のものではなく、2つで1つで動く。心と肉体が1体で動く。
現象肉体の能力を高めようと筋肉トレーニングを始めるが、心と肉体のバランスで力を使うことができる。宇宙は完全バランスであり、このバランスが力、知恵になる。
このバランスを取ろうとする時、自我からはバランスは取れない。自我という我を捨てた時、初めて無我になり、宇宙力が使える。人間の思考を停止させることで可能になる。
身体の動きも1つの動きである。真理は1つということを肉体の動きから感じとれる。
肥田式強健術は中心を作る動きであるが、すべての動きは1つの動きである。
中心なる意識で肉体を動かして行く。すべては内から外へ。中なる心と一体で動かす。

 

全知全能の力、知恵の引き出し方


全知全能の力、知恵の引き出し方

人間が最大の力を出せるものは、どんな人間なのか?
お金もいらない、地位もいらない、名誉もいらない、命もいらない。人間の固定観念の安全弁を外すことができる人である。
学んで身に付けるものではない。自我の持っているものは自分を守ろうとする為、神の力を使うことができない。
本来はすべて神の子なのであるが、現象の姿、形を見る為に自己保存の法則が働き、本来の持っている力、知恵が使えない。この現象界を生きる為に使う為にあるのではない。人間の媒体を使って全知全能の力、知恵を地上界に放射させるために人間の媒体は造られている。
人間が生きるために造られてはいないのである。すべて真逆なのである。
キリストが弟子を選ぶ時、教養にある者を選らばず、農民や漁民を選んだのは素直な心の持ち主を選らんのです。悟りに必要なのは純真なる心が必要不可欠なのである。
 

神の波動


神の波動

波動が伝わるということは時空間はないということになる。宇宙は1つと云うことになる。
宇宙は質料と光エネルギーの完全調和生命体。
これを原因なき原因とか、処女解任とか云っている。宇宙は中性であると云っているのである。

イエス様だけが処女解任ではない。万象万物はすべて処女解任である。髪の毛一本、処女解任である。創造のエネルギーのことである。
創造エネルギーの波動が神である。
宇宙にはこの神の波動が鳴り響いている。すべてが神の波動である。これを普遍生命、無限生命とも呼んでいる。
神には姿、形はない。中性の見えない波動である。これが全知全能の知恵、力である。

宇宙力である。1つなる生命エネルギーである。こ゚の生命波動がすべての万象万物を現象化させている。宇宙にはこの見えない完全調和の生命エネルギーのみが実在している。
永遠なる生命のなかに有限なる生命は存在しない。
原因、結果の法則から見ると謎が解けてくる。見えるものには必ずそれを顕すものがあると。
実にシンプルに考えるだけで答えが出てくる。素直さだけが必要である。
現象を自分と思っているものには現象が理解できないが、原因から憶念すればすごく簡単である。
 

自我と分離感


自我と分離感

宇宙は完全なる1つなる生命体。こ゚の生命体は見えないミクロの生命がマクロの現象を顕している。
人間はこのトリックに引っかかってしまっている。
完全なる中において死があると信じて宗教家に上納金を収めている。宇宙はすべてが神であり、仏なのである。神、仏とは宇宙の法則のことであり、キリストはこれを愛の法則と云い、仏陀は慈悲の法則と云われている。ブッダも宇宙即我と云われている。ブッダが中道と云われているのはこの法則のことである。すべては1つなる生命である。
人間は1つのものを分離し、現象をあると思い違いをし、自縛している。1つなる神の生命体の中で、人間をやっている。
完全の中に争いも対立も存在しないのである。見えるものは見えない宇宙の本源本質の顕れであることを理解して行く。神1元の中にいるものはすべて神であり、仏である。砂浜の砂1粒、石1つも神である。人間という自分を持ってはならないのである。無我なのであるから。





 

2023年10月22日日曜日

現象に生きるとは


現象に生きるとは

宇宙は1つなる無限生命、普遍生命である。
すべて1つなる永遠なる生命の中にいる。
現象はすべて1つなる生命の化身である。
見えるもので神ではないものはない。見えるものすべて神の化身である。
神様は人間が造った建物にいるのではない。すべてが神であり、宇宙は神であり、祀りようがない。神の中に神の社があるのは滑稽である。
宇宙生命は完全バランスである。現象界は外部からの影響がある。この中に現象に左右されずバランスを崩さないことが求められる。外部に左右されるとアンバランスになり、現象から抜け出すことができなくなる。現象の抵抗をエネルギーに変換して現象をバネとしてその流れに身を任せ、グライダーの如く、鳥の如く、空と一体となり、バランスをくずさない。
地上界の作用、反作用を利用しながら生きて行くことが求められる。
見えるものに心が囚われるとアンバランスを起こし、空に戻れなくなる。輪廻でまた再生される。今、私は再生されている。天に戻れなかったのである。またこの世に生まれるということは不幸なことなのである。

 

すべては空である


すべては空である

宇宙は1つなる空である。原因、結果の法則がある。見えるものには必ず原因がある。
原因は宇宙の本源本質である生命、空が無限生命として、永遠なる生命として実在している。
人間も空の現象である。現象として人間が存在しているが、人間は生命の操り人形として動かされているだけなのである。人間が自分で考え、動いているように思っているが、実際は見えない生命が動かしているのである。現象の中には必ず生命が宿っている。生命は見えないが生命が肉体を使って想念によって全知全能の力、知恵を使っている。
想念が生命エネルギーを使っている。
楽しい時は楽しい表現をするし、悲しい時は悲しい表現をしてくれる。
すべては生命、空エネルギーによって空が姿、形の媒体を使って活動をしている。
宇宙の完全完璧の中で肉体を使って働くことではない。肉体を使って生命エネルギーを放射させることである。命の使いが使命なのである。


 

何故の答えは1つである


何故の答えは 1つである

宇宙は1つなる生命体の現象である。すべては1つである。言葉も1つの顕れ、すべて同じ意味である。

神という言葉は生命、エネルギー、霊、光、調和、愛、波動、バイブレーション、微生物、様々な言葉の使い方があるが、すべて1つなる生命を顕している。様々な現わし方をしているが、すべて1つのことなのである。
これを見えるものだけを見る為、違ったものに見てしまうが、すべて1つに現象である。
人間は万物の霊長と云われているが、これを見抜くことができない。現象に囚われ過ぎてしまっているため、見えるものが見えなくなっている。爭い、対立はまたまた人間は幼児期だと云われても仕方がない。太陽系の方々に助けて頂いていることも気づかずに。
波動が下がってしまっている為に気づかない、自分達で波動を下げているのに気づかない。
これは人間の生き方が間違っているといメッセージに気づかなければならない。やることなすこと結果対処でするため、お金がかかってしまう。することがすべて真逆なのである。


 

肉体は乗り船である


肉体は乗り船である

仏陀は肉体を乗り船と例えている。諸行無常の世界を行く乗り船であると。
乗り船の船長は我であるいうことになる。
今の自分の現象には創業者の社長と雇われ社長の二人がいる。これでは会社の運営はうまくいかない。
自我というのは二人の社長がいるということになる。会社を操るには創業者の社長に委ねなければ会社は運営できない。
人間を自分と思っていることは二人の社長がいるということになる。自我が強い人は雇われ社長の権限が強うということである。
創業者の生き方と雇われ社長の生き方が違う為に不具合を起こし会社を存続の危機にしている。人間が病気になるということは会社が不調和を起こしている状態である。
会社の社長は1人にしなければ倒産になる。人間も倒産になるようなもの。
本来の創業の社長に戻すことが自我の克服である。雇われ社長は他から雇ったのではなく、自分で仮相社長を造っているだけである。意識の切り替えである。
すべて自分が創り出した迷妄に自分が悩んでいるだけである。これは自分で造ったものは自分で意識を切り替えなければならない。自己責任である。意識は内にあり、自分でしなければならない。
 

結果から原因に戻ることはできない


結果から原因に戻ることはできない

原因は意識であり、意識が現象結果を顕している。
意識が原因と結果が同じであれば戻ることはできるが、意識が違うと分離感になってしまい、同じにはならない。
現象をあると思う自分で造った意識、自我意識、外念。内なる意識は生命意識、神意識であり、分離してしまう。現象の中には神の意識が現象を顕しているが、外なる現象意識が主になってしまうと分離してしまう。
人間という現象は生命意識、原因によって造らており、実在しない仮相、幻想なのである。
結果の現象から原因に戻ることを昇天というが、結果外念意識から内念、憶念には戻ることはできない。意識の切り替えで戻る時、現象の中にある原因意識から戻らければならない。
只、意識を変えず、瞑想しても原因には戻れない。宇宙は1つなる生命体であり、善のみの世界、善悪の分離感、自我の外念意識の人間からは戻れない。


 

2023年10月20日金曜日

人間に生きるとは神への反逆行為である


人間に生きるとは神への反逆行為である

宇宙は1つなる生命体である。無限生命体である。生命はエネルギーであり、フリーエネルギー体が宇宙である。エネルギーが様々な形態を顕し、生命活動をしている。万象万物は生命エネルギーの放射媒体である。
人間という神によって造られた放射媒体、被造物を自分と勘違いをして、勝手に使っている。形を見て自分と思っているだけで、神の放射媒体の宮である。全知全能の力、知恵を受け流す宮殿なのである。この中に自我という盗人を入れて掻き回されているのは自分自身が造るサタンである。
この自我との戦いに勝利しなければならない。本当の我と自我の我との戦いである。
この戦いに敗れれば自我という盗人に負け、地獄界を這いまわることになる。
勝利すれば天国の住人になる。この世に天国も地獄も存在している。
死んでから天国に行くことはない。生きている内に天国に行けなければ死んでは天国には行けない。意識の状態が天国か地獄を決めているだけだから。


 

得ようとするものは奪われる


得ようとするものは奪われる

宇宙は完全完璧なる永遠なる生命体である。
これが原点である。すべての現象はこの原因から発生し、現象として顕れている。
すべて意識が現象を顕している、見えるものと見えない原因は1つであり、これを分離して分けてしまう為、問題を引き起こしてしまう。
現象は様々な 現象を顕しているが、すべて1つなる生命が顕しているに過ぎない。
人間には自由意志が与えられている為、この内なる生命を外に顕す表現媒体を、自分と勘違いをして、自我を持ってしまった、法則違反なのです。自分は存在しないのに自分を持ってしまった。盗人に成り下がってしまった、
これから解脱しようと実在しない自我からは解脱はできない、元々神なのだから。
すべて持っているのにないと思ってしまうと、外に答えを求めてしまうと探すことができない。
青い鳥である。すべては汝の内になり。汝の仏は汝自身なり。汝の神は汝自身なり。
敵は本能寺にありである。外に求めるなかれ。自分の求めるものは外ではなく、裡にある。

 

現象はすべて生命の化身


現象はすべて生命の化身

現象はすべて神の化身である人間の現象を自分と錯覚して、神の生き方、法則から離れ、神の器を自分と思い違いをして神の道具を勝手に使っている。
その為、知恵、力が使えない。
神の全知全能の力を使おうとしても使えないのは神の器を自分と思っている状態では使うことはできない。一度神によって造られた表現媒体の肉体を一度、神にお返ししてからでないと使うことはできない。神の道具である人間媒体と1つにして使うことで使うことができる。
自我という盗人が使おうとしても使えないのである。
現象を神の道具と認めない限り、使うことができないのである。
悔い改めをしない限り、使うことができない。宇宙は神一元であり、これを認めない限り無理である。神の道具なのだから。一度お返しし、神の道具として神が働くように邪魔をしない環境を作る。神一元の肉体を霊肉一体に霊化させて行く。其処には自分の自我の存在はない。
無我の状態である、
現象に意識を置くことで善悪の木の実を食べることになる。



 

宇宙には姿、形を持たない生命原理が存在しているだけである


宇宙には姿、形を持たない生命原理が存在しているだけである

この生命原理を神と呼んでいる。
創造原理である。愛の法則である。
この創造原理が様々な現象を顕している。人間も然り。
人間には自由意志が与えられており、この自由意志を間違って使って法則違反を犯している。法則がげんしょうげんしょうすがらすがらげんしょうものを自分と錯覚し、法則によって造られた姿、形を自分と見てしまったために、生老病死の現象に憑りつかれてしまった。
すべては神である。人間は存在しない。生命の法則が我だったのである。

現象を見ていると意識が肉体を動かしていることに気づく。
すべてのものを見てみるとすべて陰陽の法則で動いているのがわかる。大宇宙は小宇宙であり。同じ法則なので、身近なものを見て感じ取ることができる。


 

宇宙は神のみが働いて神のみが生きている



 宇宙は神のみが働いて神のみが生きている

宇宙は一なる生命体だけが独存している。
宇宙には人間という存在はない。
人間は宇宙の塵にて人間の形を造り、其処に息を吹き込まれたと。人間という名前は後づけである。
ここがすべての原点である。
人間は神によって造られた神の被造物である。すべての万象万物も神の被造物である。
神以外、何も存在しないのである。
すべては神の全知全能の力、知恵によって生かされているだけである。すべてです。
人間も人間が自分で知恵を出して動いているのではない。すべて神しかいないのですから。

人間がいると思うから間違いを起こす。争いを起こす。1つの生命の中で殺し合いをする。
このことを理解し、仮相界から実相界に1人、1人が戻って行く。
戻るのにお金はかからない。
生きている内に成仏できなければ、死んでは成仏できないと偉いお坊さんも云っている。
人間意識で死んで神になることはない。すべて意識の世界だからです。生きている時に神意識でなければ死んで神意識にならないからである。



仮相界という牢屋


仮相界という牢屋

この仮相界は非常に波動が低い世界。現象を見、心があると認識することで、波動を下げてしまう。
怖い世界である。想ったことが顕れる世界。
本来は高バイブレーションの空の世界から現象化しているのであるが、現象の結果だけを見てしまう為、現象に生きるようになってしまう。
宇宙は1つなる生命体であり、無限生命である。無限生命の中で現象、見えるものがあるということは1つなる生命の顕れであるということに気づかないといけないのである。
子供が生まれた時、神の預かりものとして育てる。神にお返しする。昔は子供を神の預かりものとして育てた。
今は自分の子供として、お金を取り、裕福な生活ができるように教育をする。
全知全能の神の子を小さな枠に入れ、現象の生き方を洗脳して行く。
学校で学ぶものは知識であり、実際には約立たない。

能力を出す時、脳幹部の思考を停止することで、超能力がでる。
宇宙は神一元の世界である。仮相の人間には何の力もない。すべて神が行なっているのである。それを自分がやっていると勘違いをしているだけである。
この事に気づき、すべて神の子であり、神の器であることに気づくことができれば、1つなる生命体であることを知れば、争いはなくなり、地上天国が顕れる。

キリストが云われている言葉は重い。
この世で富めるものはラクダが針の穴を通るが如し

仮相界から本当の我に戻らなければならないのである。戻るには学問、教養は一切必要としない。素直な心だけが必要なのである。お金も一切必要としない。教養がある者ほど、教養が邪魔をして戻れなくなる。仮相界という牢屋から抜け出しましょう。自分の意識だけが必要なのである。

 

2023年10月19日木曜日

1つの中に2つはない


1つの中に2つはない

宇宙は1つということは見えるものはすべて見えないものの顕れであり。万象万物は1つであるということになる。見えるものはすべて1つであり、鉱物。植物、動物、人間すべて1つなる生命の表現媒体であるということが理解できる。
この見えるものだけを見てしまう為に、生老病死の四苦に囚われ、エネルギーを落とし、また再生される。現象が自分ではなく、現象を顕しているものが我なのである。すべて1つの顕れ、1つが我であることが理解できる。現象は様々な形があるが、すべての姿、形は1つの生命の顕れであることを理解して行く。
この理解が生老病死の四苦からの解放が可能になる。意識の切り替えで行う。
宇宙は1つの家族なのであり、1つの生命の顕れ媒体である。
天地一体である。1つの中に争いは起きない。争いがあるということは分離感で天には帰れない意識体である。人類はまだ善悪の木の実を食べ続けている。爭い、対立の二極化から抜けだせない。


 

今の一瞬の刻しか使うことができない


今の一瞬の刻しか使うことができない

神、仏とは宇宙の中性の法則である。
この法則は見えない。自然界もこの法則によって動いている。
この法則の中は時空間がない為に今の一瞬しか使えない。明日の時間も昨日の時間も使うことはできない。生きるとは一瞬の刻しか使うことができない。
今の一瞬に集注し生きることしかできない。意識をかけた時間だけがが使えるだけです.
生きるとは今の一瞬に集注することです。意識をしていない時は使っていないということになります。

一心集注することで自分を無くし、使うことができる。集注力で時間を使う。
宇宙は神一元であり、神に一心集注をかけて行く。我は神の中にいる神の子なのだから。
すべてが神、生命の現象であり、人間という現象は姿、形の名前である。実在はしていない仮相。幻想である。
人間の使命はこの肉体を使って宇宙の生命エネルギーを受け流し、地上界の波動を上げることが使命である。

 

宇宙には1つなる生命、神のみが独存する


宇宙には1つなる生命、神のみが独存する

天地一体。これですべては1つである。ということが理解できる。地上界は見える世界。天は見えない世界。これが1つであるということはバイブレーションの違いで、見えるもの、見えないものに変化しているだけである。
地上界にいる人間は天の顕れであることが理解できる。1つの生命をキリストは「原因なき、原因」とも云われている。宇宙は中性であるということである。地上界はこの中性の法則によって動いている。この原因である法則のことを見えない為に神と呼んでいる。神とは宇宙の中性の法則のことである。
この法則のことをキリスト、仏陀と呼んでいる。宇宙全体が神であり、仏である。
神、仏を造って祀っている宗教は偶像崇拝である。宇宙そのものが神、仏なのである。
神、仏は無形無双の無限宇宙である。愛の法則、慈悲の法則である。

見えるものも見えないものも神、仏である。神、仏を外に求めると分離感になり、宗教家の餌食になってしまう。1つの中に2つはないのである。
この現象の意識の仕方なのである。見えるものは見えない神の被造物であり、これを2つに分けてはならない。造り主と造られたものは1つである。
これを神が造ったものであると認めても神を外に求めてしまう。分離させてしまう。
天地一体ということはすべては1つの神である、見えるものの中に見えない神が宿っている。すべては神一元、これが宇宙神である、宇宙は神であり、神は宇宙である。すべては1つ。


 

すべては生命の御業


すべては生命の御業

宇宙は1つなる生命体、これを神と呼ぶ。神とは宇宙生命体のことである。無形無双の生命エネルギーである。人ではない。すべての創造主である。万象万物の父である。
この宇宙生命体の中に人類は仮相として顕れている。万象万物の御業はすべて生命が行なっている。
地球の地上界には人間が現象化している。この人間にだけ自由意志が与えられている。
人間は生命の仮相でありながら、自分が生きていると勘違いを起こし、地上界を我物顔で荒らしわわって略奪し、同じ生命を殺し、仮相界を生きている。
この使っているエネルギーは神のエネルギーなのである。人間という器は神のエネルギーを器を通して現わす媒体として現象化しているものをその形を見て自分と錯覚し、勝手に使っているだけである。レンタカーを自分の車の如く使っている。ガソリン代も払わず。
人間が行なっている御業はすべて神のエネルギーが行なっている。
御業を行っている神の子が我が中に宿り、働いているのである。人間はこの事の気づかないのである。

 

2023年10月18日水曜日

1つなる生命の分離


 1つなる生命の分離

天地一体。天と地は2つで1つであり、天によって地を顕している。天は創造の父、地は現象の母である。想念は実現の母である。
父と母は2つで1つである。母の中に父が宿っている。
現象は2つで1つであり、父と母で1つであり、完全なのである。これを見えるものだけを見て、見えない造り主を見ない為に分離感が生まれてしまう。見えるものと見えないものは1つであると知れば、すべては1つであることが解れば争いはない。すべてが1つの生命の顕れであることがわかれば、人類皆兄弟となる。
この分離感が克服しなければならない問題である。
これを逆に宗教家に弱みに付け込まれ、利用されている。現象から結果から幾ら治そうとしても治らない。根本はこの分離感である。ないものをあると信じる自分の心が分離感を造る。
分離をすると不安、恐怖、悩みを持ってしまう。原点は完全なのである。不完全にしているのは他でもないっ自分自身なのである。

自分で造った罪を神様のすがって「助けて下さい」というような乞食の真似はしない方がよいと思う。自分の中に助けてくれる神がいるのだから。



外なるものは内なるものの顕れ


外なるものは内なるものの顕れ

見えるものは見えないものによって顕されている。
外なるものの現象は内なる生命意識によって表現媒体として具現化されている。意識は見えないが想念、想ったことを顕わしている。

楽しいと想えば楽しい表現を肉体はしてくれる。悲しいと思うと悲しい表現をしてくれる。
意識に忠実に表現してくれる。

意識の我を表現媒体を自分と勘違いをしてしまうと表現媒体は常に変化して止まないものであり、生老病死の四苦に囚われてしまう。不安、恐怖、悩みに持て遊ばれてしまう。
高波動の我の波動を下げてしまう。高波動であれば生老病死の四苦に巻き込まれないが、低波動になると同調してしまう為に、巻き込まれてしまう。
内なる波動は高バイブレーション、外は低バイブレーション。意識を何処に向けるかで、天国か地獄かが決まる。意識の状態である。


生命は完全バランス


 生命は完全バランス

バランスとは2つのものが1つになっているということです。質料とエネルギーの完全バランスである。この完全バランスが中性なる生命である。
宇宙はこ゚の完全バランス、中性なる生命体である。
この生命体は創造の原理でもある。宇宙はこ゚の原理により万象万物を創造し、生命活動をしている。

この完全バランスがあるが故、現象を顕すことができる。この完全なる生命体の中に現象化している。すべて完全なのです。

人間も完全なる生命の現象であるが、人間は自由意志がある為に、この自由意志を現象を見て自分を持ってしまった。実在しない自我を。
現象は常に変化して止まない無常の世界であり、この現象に意識を置いてしまった。
完全とは見えない高バイブレーションであり、現象界は見える低バイブレーションの世界である。高バイブレーションなる我を低バイブレーションに下げてしまったのは自分自身であり、自分で波動を上げて行かなければならない。現象界で成すべきことはお金儲けではなく、波動を上げることである。自分は蓮の華であり、その種は自分の中に蒔かれている。現象界でこの種を開花させて行く。現象界は種の大切な肥料である。

2023年10月17日火曜日

人間は自分で生きようとするから間違いを起こす


人間は自分で生きようとするから間違いを起こす 

宇宙は完全なる1つなる生命体である、完全なる生命体である。この完全ということが前提である。
完全ということはすべて行うものが完全であるということである。
万象万物はこの完全なる中に生命活動がなされている。人間も宇宙の完全なる中で生命が活動をしている。完全と云うのは生命が完全なのであり、現象は媒体なので、完全ではない。外部の影響に影響されてしまう。
人間には自由意志が与えられており、完全にも不完全にもすることができる。
完全なる生き方をするために自由意志が与えられているが、自分が生きようとして不完全を招いてしまった。肉体は自分のものではなく、神が地上界に生命エネルギーを顕現する為に造られた神の宮を自分のものと勘違いをして神のものを勝手に使っている。盗人である。
故に不完全になってしまっている。現象を見るから自分のものと思ってしまうので、現象は生命が現象を顕していることに気づけば肉体は不完全になることはない。
神として生きれば何の問題はない。人間と思っている自分は神の器なのである。
故に間違いを起こしてしまうのである。
宗教家はこの盗人の悩み相談をして生きている。

人間は神の顕現道具を自分と勘違いをしているだけなのである。自分は姿、形ではなく神そのものが我であるということである。


生命が肉体を通して生きている


 生命が肉体を通して生きている

人間は姿、形が自分だと思っているが、人間は見えない生命の化身なのである。
生命がなければ肉体を動かすことはできない。
生命は高バイブレーションのため見えない為に生命を感じ取ることができないのである。
人間という姿、形を動かしているのは意識である。この高場バイブレーションの見えない意識が肉体を操っている。1人、1人が想念意識を理解し、バイブレーションを上げて行くことで肉体意識から離脱して行く。意識の切り替えをして行く。
キリストが云われているように、肉に生きるは死であると。永遠なる生命の中にいるのだから有限の死に生きてはならないと。



正しい法則に戻す


 正しい法則に戻す

宇宙は1つなる完全法則である。万象万物はこの完全法則に基づいて現象化している。完全の中に居て不完全ということはない。不完全にしているのは人間だけである。人間には自由意志が与えられている。この自由意志を正しく使わない為に不完全を生み出している。宇宙の法則に沿って使えば問題なく、永遠なる生命体で生きることができるものを敢えて法則違反で使っている。その為に自分で自分の首を絞めている。

現象と顕している生命を分離することで不調和を起こす原因になる。この分離感が地上界を修羅場にし、1つなる生命体の人間同士が醜い争いをしている。これは宇宙の法則違反である。
この不完全なる生き方が、この地獄界から抜け出せない原因である。これらの不調和はすべて自分が創り出している。この事に気づけば生老病死の世界、自我の世界から解放される。


本来の我とは



 本来の我とは

宇宙は無我の境地とも云われているのは宇宙は形を持たない無形無双であるということである。
これが全知全能の生命体である。
現象界で、人間が力を出す時、どのようにするのかというと、自分を捨てた時に力が出る。
お金も、地位も名誉もいらない。自分の命もいらない人間は現象の安全弁が外れる為に力がでる。これが無我ということである。
宇宙はこの無我の状態。現象には心を止めない状態。現象の思考を停止させて行く。
現象界から離脱するために意識の切り替えを行い、生命エネルギーと一体になり、エネルギーを放射させ、本来の我に戻って行く、現象界は本宿に戻るための学びの場所である。
特別な難行苦行は必要ない。日常の中で行う。この世を楽しく生きる場所ではないのである。



分離感が人間を現象から抜けさせなくしている


分離感が人間を現象から抜け出せなくしている

天地一体。表裏一体、すべては1つである。
宇宙は1つなる細胞体であり、細胞が分裂し、集合化し、見える現象を顕している。
この見えるものだけをあると思ってしまうことが 分離感になってしまう。
見えるものは現象なので常に変化して止まない世界である。見えないものは実在で永遠なのであるが、見えるものには寿命がある。
人間は生まれることを誕生と云い、お祝いをする。誕生ということは不完全であるため、地上界にまた戻されたのであり、本当は不幸なのである。
死ぬ時も悲しむが、昇天するのだから喜ばしいのであるが。
考え方が真逆なのである。
この真逆な生き方を変えない限り、昇天することはできない。
結果から原因を求めることはできない、

今の宗教を見ていると今の現象の困りごと相談所になっている、キリスト、仏陀は困りごとを解決する為に現れたのですかね。
モーゼの十戒ではないが、現象利益を優先する偶像崇拝するものと神の生き方をするものに分かれる時期に来ていますね。



2023年10月16日月曜日

姿、形の背後にあるもの


 姿、形の背後にあるもの

姿、形は現象であり結果現象である。現象を顕しているものがある。見えるものは必ず顕しているものがある。宇宙は1つなる無限生命体である。これ以外何もない。生命は見えない。法則である。
この法則が万象万物を顕している。顕しているものと顕れているものは同じものである。色心不二である。
原因、結果である。この2つで1つであることを忘れ、見えるものだけをあると思う心が分離感を生み出してしまう、分離感は完全なるものを不完全にしてしまう。意識の問題である。
不完全にしてしまうとそれを完全にしようと外部からエネルギーを得ようとする。
其処に争いが起きる。善悪の木の実と云うのは分離感である。
人類はこの分離感に気づくまで、修行をさせられる。
姿、形は外なるもの、外なるものは内なるものが顕している。見えるものの背後にあるものが実在しているものである。背後にある原因が我であり、現象の結果の我は仮相である。
仮相は内なる生命の操り人形であり、何の力も持ち合わせていない。生命の現わす媒体としての器である。


完全の中に不完全は存在しない


完全の中に不完全は存在しない

宇宙は完全なる永遠なる愛の生命体である。
この完全の中に不完全はあり得ないのである。
不完全にしているのは自らがバランスを崩しているだけである。
人間は宇宙生命体の中に存在する。完全なる中に存在する。完全であれば不安、悩み、恐怖はなく、不変不動の世界の中にいることができる。人間というものが不安、恐怖、悩みが生じているのは変化して止まない現象を見て、これをあると思う心が、完全なる心を不完全なる心にしているだけである、完全意識が、外なる現象に向くと意識の波動が下がり、諸行無常の不完全な中に陥ってしまう。
完全なる意識を不完全な心に下げてしまったのは自分自身なのである。
生老病死の四苦から解放するには意識を元の完全なる意識に戻さなければならない。
すべて自己責任である。すべて法則通りに動いているだけである。
法則違反をしておいて神様にお願いしても自分自身が直さない限り、元には戻らない。
宇宙は愛の法則の中で永遠なる生命活動をしているだけである。
人間が何かをしようとすると必ずアンバランスを起こす。
人間が文明を発達させればさせるほと、地球の波動は下がり、地球をアンバランスにしている。結果から発想するからアンバランスを起こす。原因は完全である。完全からの発想でなければ、バランスを崩してしまう。

 

人間の自由意志


人間の自由意志

宇宙は1つなる生命体であり、1つなる生命が様々な形態を造り、生命活動をしている。
生命が生きているだけである。人間は生命のはたらく場であり、人間だけには自由意志が与えられている。意識を自由に使うことができる。

想念は実現の母であり。想念意識で想ったことを顕すことができる自由意志が与えられている。
良いことも悪いことも好きなことができる権限が与えられている。この想念力を人間は外なる現象に使ってしまっている。その為、諸行無常の世界をあると思い、この四苦の囚われ人になっている。本来の生き方から外れてしまっている。自分で選び、自分で自縛している。
自分で自分を縛り、苦しめている。

 

高気圧と低気圧


 高気圧と低気圧

自然界は高気圧と低気圧が同居している、高気圧は晴れているが、低気圧はその中で、曇り、雨、雪、様々な現象を顕す。雨、雪は見えるが1つのものが変化しているに過ぎない。
人間も低バイブレーションになると様々な表現が顕れる。1つのものが変化して顕われてくる。高気圧は気圧が高い為、安定している。
形があるということは低バイブレーションであるということである。
バイブレーションが高くなれば、様々な現象に惑わされなくなる。

山岡鉄舟の言葉の中に

晴れてよし  曇りてもよし 富士の山

         もとの姿は変わらざりけれ

現象は様々なものが顕れる。諸行無常の世界。外の意識は低バイブレーション。
この低バイブレーションの波動を高バイブレーションに上げることで、低バイブレーションで起きる現象には左右されなくなる。
すべては1つのバイブレーション変化で起きてしまう。低バイブレーションの世界は何が起こっても不思議ではない世界である。
心は高バイブレーションであり、この心の波動を下げてはならないのである。
見えない高バイブレーションの世界が生命の世界であり、不変不動の世界が我の世界である。
この世界に戻らなければならない。1つなる生命にならなければ使命を果たすことはできない。


天地一体とは


 天地一体とは

天地一体、見えるもの、見えないものは1つである。人類はこの天地二体で見ている。分離感で見ている。
1つのものを分離してしまうとどうなるのか?
見えない天が見える地を顕している。現わされている地だけを見てしまうと見えるものは現象であり、変化の止まない無常の世界に囚われてしまう為、自己保存の法則により、争いが起きる。
1つなる生命は永遠なる生命でであり、永遠なる生命の現象なるものに囚われてしまい、本来の我は永遠なる生命である事を忘れてしまっている。現象の見える姿、形が自分ではなく、見えない生命が我であることに気づく。この気づくために現象界、地の世界の現象の中に蒔かれた光の種である。蓮の華のように、自分の光の種に気づき光の華を咲かせて行く。
天地一体、すべては1つの生命体が存在している、分離感は自分自身を自ら不調和にしてしまっている。すべての悩み、不安は現象だけを見て自分で自分を縛ってしまっている為に起きる現象である。これは意識の切り替えて修正できる。自分で造ったカルマは自分で取るしかないのである。意識の切り替えで即、取ることができる。